何気なく振り仰いだ空は、切り取られた四角。小説の中の方がよほど現実味が感じられるほど馬鹿みたいに綺麗な青に、足らない雲を思った途端、痛いほどの白を思い出した。姿が見えないまま聞こえてくる、外で騒ぐ甲高い少女達の声が、先ほど私達を・・・いや、私の隣を歩いていた人を見て騒いだ少女達の声と似ていたから、尚更。
ゆっくりと視線を空から切り離して、窓際に座る私の対面に座っている人に視線を向けると、確かにあの見知らぬ少女達が騒ぐのも無理ないくらい『格好良い』人がいる。アイドル系じゃなく、どちらかといえば、正統派の俳優みたいな感じ。かといって物凄い格好良いわけじゃないけど、よく見ると格好良いという類の。派手な格好はしないけど、服装や髪などに実は凄い気を遣っていると知っているその人は、私の人生初の『彼氏』という存在だったりもする。でも紹介すれば自慢になるのが分かっていても、誰かに紹介したりしたことはないし、これからもしない。
それだけが、私が今となっては唯一取れる彼に対する礼儀だと思うから。
「どうかした?」
じっと向けていた視線に気づいたのか、怪訝そうな顔をしてかけられた問い。何も遮ることがない視線にふと、何かを思い出しかけて・・・その時、床に広がった光の中を横切る影が見えた。少しだけ驚いて振り返れば、そこには既に四角い青から消えかけた鳥の姿が。しっかり見たわけではないので、何の鳥なのかは分からないそれを見送っていると、先ほど思い出しかけた何かが白であったことに気づき、その白を再び、強く思った。
白を送り出す、日に焼けてない細い手も。
「・・・そういえば、私、コジマ君が好きだったんだよね」
吸い込んだ息を吐き出すみたいに自然に口から零れた言葉は今更で、どうして今、このタイミングで零れたのか、その理由は分からなかった。そして実際にそれを言った私より訳が分からないだろう私の『彼氏』は・・・酷く戸惑った顔で口を開いたけど、吐き出す言葉を何処かに置いてきたように何も言えずに閉じてしまう。でも置いていかれた言葉を、知っていた。だから声という形にならなかったそれに、気にすることなく答えたのだ。
「コジマユキ君、の方」少しだけ、笑いながら。
私の答えに目を見開いて絶句した様を見ながら、更に大きくなる笑いを抑える術を持たなかった。だって絶対、コジマシュンスケ君の方だと思っていたに違いないから。それはある種の自意識過剰だと言ったら、怒るのかな?怒るより先に照れ笑いを浮かべる気もするけど。
数秒間、言おうかどうしようか迷ったのは、見られるはずの照れ笑いを見たいという願望がなかなか消えてくれなかったから。でも意地悪はしないし、意地も張らないという誓いが在って、喉元までせり上がってきていたそれを必死で飲み下した。かなり大きな塊だったけど。そして飲み込んだ塊の代わりに、衝撃から抜け出せない人に、自分でも意識する間もなく零れた言葉の続きを語る。
もう数年前の、真っ白で真っ青で、真っ黒な記憶。
「もう、時効にしてほしいんだけど・・・」再び零した小さな笑みは、きっと少しだけ苦かった。懐かしい思い出に相応しく綺麗で、同じだけ苦い記憶は、口に出来なかった謝罪と後悔で塗れている。小学校高学年、自意識ばかりが先にたつ、つまらないプライドで大事なモノを取り落としてばかりだった頃の。
あの頃、クラスに『コジマ』は二人いて。
一人は『コジマ』君、もう一人は『シュンスケ』君と呼ばれていた。
どうして同じ『コジマ』なのに一人は苗字で、もう一人は名前で呼ばれていたかというと、理由は小学生ならではの、あからさまなまでに簡単な理由故だった。
シュンスケ君の方は格好良くてスポーツ万能で、頭も悪くはなくて、性格も明るく・・・つまりクラスの人気者だったので、名前で呼ばれて親しまれていたのだ。それに対してもう一人の『コジマ』は、嫌われてこそなかったけどクラスの人気者には程遠く、その所為で同じ『コジマ』という苗字なのにこちらは名前で呼ばれることがなかった。呼び方というのは人気のバロメーター、子供は本当に残酷だ。呼ばれている本人達にすら分かるように、あからさまな区別を平気でするのだから。でも、その当時、私は・・・。
ダサくてスポーツが出来なくて、頭は良いけど真面目すぎて融通が利かない、面白みの欠片ものない『コジマ』君のことが、大好きで。
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本当のことを言うと、元々あまり顔のレベルとかスポーツが出来るかとか、明るい性格をしているかなんて、どうでも良いと思っているタイプなのだ、私は。
問題はもっと別の部分、たとえば内面とかそういうものだと思っていて、でもそれを口にすると他の女子に馬鹿にされると分かっていたから、適当に周りに合わせて絶対にそんな自分の考えを言わないようにしていた。だって女子の輪から『変わっている』の一言で外される恐怖って、有り得ないくらいのものなのだ。それを味わうくらいなら、自分のちっぽけな考えなんて折って折って折って、見えないくらいに小さく折り畳んでゴミ箱に捨ててしまえるくらいに。
だからいつも話を合わせていた。誰が格好良いとか、あの子は誰々君が好きなんだとか、そういう類の会話には。でも本当は、本当は・・・どうでもいいって思ってた。べつに好きな人なんていないし、だいいち、恋とかって、何がそんなに楽しいのか分からない。好きな人を、どうしてムキになったように探さなきゃいけないのかも。
つまり私は、どちらの『コジマ』も興味がなかった。二人の『コジマ』の存在を知ってから、かなり長い間。
きっとあんなことがなければ、ずっとそのままだった。でも同じクラスになって、進級する際、持ち上がりでクラス替えになることなく同じ教室で過ごす二度目の秋。まだ暑さが引かず、夕暮れもそう早くは訪れない、秋とは名ばかりの季節。塾の帰り道、いつも一緒に帰る子達が偶々皆休んでいて、一人だからと向いた気が、近くの土手を差したから。示されるまま登ってみて、思ったより大きく見える川を、思ったより高く感じる土手の上から見下ろしていて・・・まともに喋ったこともない『コジマ』君を見つけた。
土手を少し降りた辺り、こちらに背を向けて、足元に同じ塾の鞄を置いて、水の臭いと湿った強い風に囲まれた中で。
真っ青な空に、真っ白な紙飛行機を飛ばそうとしていた。
うぉっ、というのが、その瞬間の感想だった。もっと具体的に言うなら、何やってんの?みたいな。更に言うなら、ちょっと引きかけた。川に向かって紙飛行機を飛ばしているなんて、突っ込みが入れられないくらい謎の行動だと思ったから。しかも一人で飛ばしているのだから、引かずにはいられないと。
実は正直、当時の私は『男の子』という生き物を自分と同じ生命体だとは思えなくて、もっと粗暴で精神年齢の低い、下手をしたら言葉すら通じない存在だと思っていた。露骨な言い方をすれば、下等な生き物だと。傲慢にも等しい思い込みだと分かっていたから口に出したりしなかったけど、ずっとそう思っていて。
男の子って本当にくだらなくて意味不明なことするなぁって、そこまで思っていた覚えがある。ある、けど・・・その後、目の当たりにした光景が、冷静に考えればそこまで凄い光景でもないはずなのに、目に焼きついて、一瞬前までの感想が吹き飛んだのだ。
私と同じくらいの大きさの手、その指先が捉えていた白いちっぽけな紙。ただ何度か折られているだけの飛行機を模したそれ。手が、連なる肩が助走をつけるように何度か前後に振られる。そして。
スローモーションのようだった。今でも、鮮明に思い出せる瞬間。
一際大きく、自身の身体より後ろに引かれた腕が、真っ直ぐに前に向かって伸びて。
伸びきった瞬間、見送るように指先が離れる。
離されたそこから僅かに吹いている風に乗った飛行機は、ちっぽけな紙っぺらで作られている事実を忘れたように飛び立って。
まだ青い空、その青を映した川を見下ろして、一つとして浮かんでいない雲の代わりに白を描いた。
軽やかに、鮮やかに、力強く。
ちっぽけなのはお前達の方だと、言わんばかりに。
・・・不思議なことだと思うけど、その後の飛行機の行方を、私は知らない。
自由を模した飛行機に意識ごと心を持っていかれて、一心不乱にその行方を見ていたはずなのに、記憶の中、気がついたら場面は次に移っていて。結局、見つめていた飛行機がその後どこまで飛んで、どこに落ちていったのかを覚えてないのだ。
自らの意志で飛び回る鳥達ですら、永遠を飛んでいるわけじゃない。それなら紙で作られただけの飛行機なんて尚のことで、絶対いつかはどこかに墜ちていくはずなのに。でもそんな瞬間なんて存在しないみたいに、私の記憶からはその瞬間だけが抜け落ちている。
いや、存在しなかったのかもしれない。少なくとも、私の中では。
それくらい、意識を奪われる光景だったのだ。数秒前まで、半ば馬鹿にしていたはずなのに。
べつに紙飛行機が珍しかったわけじゃない。私だって折ったことくらいあった。でもだからこそ、吃驚した。私が折った紙飛行機は、飛行機なんて名ばかりで、手を放した瞬間力なく少しだけ飛んだ後、地面に向かって墜落するような物だったから。私だけじゃなくて、周りの誰もがそうだったけど。偶に飛んでも、数メートルいくかいかないか程度。
だから他愛無い遊びだという認識だったそれが、まさかあんなに自由に飛び立つだなんて思いもよらなくて、気分的には殆ど奇跡の目撃者だった。
自由、なんて言葉だけの概念が実在するみたいに。
誰もが憧れて、でも面倒だから誰も欲しがらないそれが本当は凄く美しかったみたいに。
きっと暫しの間、私はその場に立ち尽くしていたのだと思う。いなくなってしまった飛行機を、まだ夢見るように見つめて。だからそれがどのくらいの時間のことかは分からないけど、記憶の中に残っているのは次の場面だった。
飛び立つのを待つ飛行機を手に、酷く驚いた顔でこちらを振り仰ぐ、コジマ君の顔。
まぁ、驚くだろうとは思う。今になって思い返せばだが。私とコジマ君は同じクラス、同じ塾だったけど、それまで話したことなんてなく、それなのにあんな場所であんな状況で、しかも無言のままずっと見下ろされていたのに気づいたら、そりゃ、誰でも驚くだろう。せめて声ぐらい掛けろよって思うかもしれない。でもその時私が思っていた事と言えば、そんな冷静なことではなくて、視界の隅に映った、地面に転がっている私と同じ塾の鞄を見ながら『だから塾帰りに今まで見かけたことなかったんだ』とか『いつになったら次の飛行機飛ばすんだろう』とか。
なんであの飛行機は紙飛行機じゃないんだろうとか、そんな意味不明なことばかりで。
思い出すと、結構微妙な光景だったと思うし、きっとコジマ君はその時、私が醸し出していただろう無言のプレッシャーみたいなモノに怯えていたような気もする。・・・いや、確実に怯えていた。あまり親しくない、しかも同じ男の子じゃなくて女子が無言のまま、じっと手元だけを睨みつけんばかりに見つめているのだ。何を考えているのか分からずとも、言葉にならない圧力を感じていたとしても不思議じゃない。
実際、私は色々な疑問を感じていたけど、最終的に強く思っていたのは『早く次の飛行機、飛ばさんかい!』という、身勝手な催促で、それを視線一杯に込めていたのだから、脅していたのに等しいだろう。目は口ほどに物を言う、なんて諺があるくらいだから、その圧力はいかばかりか。真面目でシャイな部類に入るコジマ君がその圧力に屈するのはもう自然の摂理に等しく、ぎこちなく視線を逸らしたコジマ君は、暫し前方の川を見下ろして逡巡した後、視線を逸らしてすら背中に突き刺さっていただろう私の視線に耐えかねて、手にしていた飛行機を空に解き放った。
同じように空を飛ぶ、白の姿。
重力なんて存在しないように軽々と、悠々と飛ぶ姿は鳥よりずっと綺麗で、溜息が出た。
あの頃は分からなかったその気持ちを無理に言葉に変えるなら、それはたとえば羨望のような、憧憬のような。飛べない生き物が本能的に備えた劣等感を刺激するものでありながら、同じくらい希望を与えてくれるモノ。まだなんだって、何の根拠もないのに諭されている気になる。根拠がないから、理由も分からないけど。ただ一つだけ言えることがあったとすれば、それはもう一度と、頑是無い子供ならではの強さで強請らずにはいられない光景だということだけだった。
二度目の飛行機、飛び立つ姿を見送ったそれの最後を見届けた記憶は、やっぱりない。我ながら本当に不思議なのだが、都合よく綺麗さっぱり抜け落ちている。代わりに都合よく覚えているのは、それからも何度も白い飛行機を見つめたこと、その飛行機が舞う空の色が、やがて青から橙に変わって、眼下に見下ろす川も同じ色に染められていったこと。辺りが何色に染められても、飛び立つ飛行機の白さは変わらなかったこと。
そして。
「・・・もう、五時だから」
帰ろう、そう、どもりながら言ったコジマ君の声と表情。たったそれだけの言葉を、勇気を振り絞って言いましたと、言葉より明確に伝わってきたモノ。
必死、というより既に決死、という感じのコジマ君に、内心だけでそこまで振り絞らないと言えないことか?と思って、でもすぐにそうかもしれない、とも思った。だって私がもし知らない男の子に声をかけなくてはいけなくなったら、きっと同じくらい色々振り絞らないと無理だから。私みたいな性格の人間にとって、性別の違いや普段の付き合いの頻度は、それくらい重要だ。多分、コジマ君にとっても。
だからコジマ君が振り絞った勇気とかその他諸々が、私にはよく分かった。よく分かって、よく分かったから。
凄いなって思って、嬉しいなと感じていた。
帰りたければ、無言で帰ればいい。だって私は、不躾なほどずっとコジマ君を見ていたくせに、一言も声を掛けなかったのだから。ただの通りすがりで、ただ景色を眺めてます、みたいな態度で。話をしたことがなくても、同じクラスメイトで同じ塾に通っているのに。
でもそんな私に、コジマ君は一声掛けたのだ。もう自分は帰る、だからキミも帰りなよ、もう五時だし、そんな意味を込めて。
私が女子だからかもしれない。コジマ君は男の子だからかもしれない。だから、かもしれないと、そう思ったら。
クラスの男の子と『コジマ』君は違う生き物なのかもしれないなんて、ちょっと説明し難い考えが、泡みたいに唐突に私の中に浮かび上がってくるのを感じた。
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え?じゃあその時が初恋?
だったらロマンチックだよねぇ。
・・・つまり違うんだ?
うん、多分。ほら、元々私、クラスの男子が好きじゃなかったからさ、餓鬼じゃん、小学生時代の男子って。何にも考えてないっていうか。だから初めがマイナスからで・・・うん、多分ゼロ地点までいったってところなのかな。アレがきっと、スタート。
でもスタート地点に立つってことは、つまりは走り出すって意味なのかもしれないけど。