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嘘のような話だが、結局あの後、酷く暴れる胸を抱えて視線を外し、その場に蹲っている間に彼女は──西方仁美は、その場からいなくなっていた。
気づいたのは、もう一度だけと思って立ち上がり、首を伸ばした時。
既に誰も居なくなったその場所を見て、哀愁というには強すぎる感情を持て余して立ち尽くした。
分かって、いたから。

あの場所は、二度と見れない。

視線を外してしまった自分の行為を心底悔やみ、こういう場合に落とすしかない溜息を小山ほど築いて。
仕方なく出た図書室、結局持っていた本を一つも借りないまま手ぶらで。
何となくもう持ちきれないほど何かを持っている気がして、棚に戻してしまった本を見捨てて鞄一つ持って出た校庭には、もう何処にもあの強烈なオレンジは落ちていなかった。
けれど少しだけ紫が掛った黒が忍び寄って来る校庭を横目に、まだ収まらぬ動悸を抱えて向かった自転車置き場で、収まってない動悸が再び上がる羽目になる。
丁度、自転車に鍵を差している黒を見つけて。
その瞬間、私という生命体の中で相反する動きが同時に起きた。
竦んだように立ち止まる足と、勢い込んだように前に行こうとする上半身。
声を掛けたいと訴える感情と、掛けるべき言葉なんてないと押し留める理性。
二つのそれらが相反して、揉め合って。
結局、そうして戦っている間にそんなちっぽけな戦いなんて知る由もない彼女は、私に気づく事なく自転車に跨り、裏門から出て行ってしまった。

たった、独りで。

見送ったその姿に、初めて『肩を落とす』という現象を体験した。
実際に落ちるものなんだなと、奇妙な感慨を感じて止まっている足を動かし、自分の自転車の鍵を突き刺す。
軽快に走り出したけれど、もう走り出してしまっている彼女に追いつくのは不可能だろう。
たとえ追いついたとしても、挨拶くらいしか交わせられない。
さようならの挨拶を、いつも通り・・・『西方さん』と呼びかけて。


あぁ、駄目だ。


浮かんだ想像、それに剛速球のように落とされたのは、断定的な否定だった。
胸を打ち抜くほどのソレは、確かに私の胸にその形を開け、風通しを良くしてくれる。
だから快調に走る自転車のうえで、爽快なほどあっさりと結論が出たのだ。
生まれて初めてとまで大袈裟な事は言わないけど、でもそれに近いぐらい滅多にない決意。


──渾名が同じだったから『さん』付けで呼ぶしかなくて、だからそれが自然の流れみたいに余所余所しい間柄になりました──


言い訳じゃないと、断言出来る。
これはきっと、事実。
でも、それが今もずっと続いているのは・・・初めのその原因をどうにかしようという、熱意を持てなかったから。
変化を、望まなかったから。
だけど、あの海を覗き見た今。
たとえ二度と見ることが叶わずとも、あの海を持った人に近づいてみたいと思わずにはいられなかった。
惹かれてしまった心を、引き離す術が分からないから。
惹かれたまま、この分厚い壁を隔てた状態でいるのは、あまりにも苦しいから。

だから──。



決める、それは決める前から決まっている答えだった。



緊張には二種類あると思う。
一つはその緊張の元を忌避していて、胃が痛くなるようなモノ。
もう一つは、その緊張を切望していて、気分が昂揚するようなモノ。
入学したあの日、感じていたのは九割が前者、一割が後者。
でも今は・・・その割合が、反転して。
いつもの三割増で上の空の会話を繰り広げながら三人で入った教室、まだ空席のままのそこを確認しながら他二人の席に行って、毎朝恒例の下らない話をまた上の空で繰り広げて、待つ、時間。
真面目な二人組みのくせに、毎朝チャイムが鳴るギリギリに登校してくる彼女達は・・・いや、彼女は、今日もいつも通り時間ギリギリに教室に入って来た。
教室の後ろの入り口から、二人並んで。
真っ直ぐに席に向かう人をともすれば注視しそうな意識を抑えて窺えば、あの海は何処にもなかった。
当たり前かもしれない。
鏡の世界を通しているわけじゃないから。
でも。
「・・・よし」
「何が?つーか何で気合を入れてるの?」
「ほっとけ、ほっとけ。どうせ意味不明な理由だから」
入れた気合に理解を示さない他二人の茶々を余所に、鳴り響くチャイムと同時に戻る、自席。
とりあえず座って前を向けば、今日は黒いゴムが見える。
あの入学式の時と同じ、色。
担任が教室に入って来るのを視界の隅に捉えながら、息を潜めるようにしてじっと前を見ていた。
自然の黒を保つ髪、その一本一本が見えるくらい真剣に。
聞こえてくる担任の連絡事項なんて右から左に聞き流して、頭を占めるのはその雑音が聞こえなくなった時の事ばかり。
担任が出て行って、一時間目が始まるまでの短いブランク。
まるで勝負に急くような心に、珍しく理性が同意を返している。

だって、早くしないと夏休みになる。

長い、長い休み。
その前に、せめて。
決断力に乏しく、実行力が欠如している。
自覚がある自分のその特性に大抵の事は屈してしまうのだが、今回は迫り来る理由が味方してくれた。
背を、押してくれた。
小さく吸い込んだ息は、喉で溜まってすぐに口から零れていった。
心臓がおかしな音を立てて、落ち着きを無くす。
・・・それでも、いつもより短く感じる担任の話が終わり、教室から出て行くのを見落とすことはなかった。
見落とした、振りをすることはなかった。
担任が教室を出て行った途端にざわめきを取り戻す室内。
席を立つ者、座ったまま近い席に座っている相手に話し掛ける者。
静止していた目の前の黒が、少しだけ揺れて何かの動きを取ろうとした瞬間、決まっていた心が身体に指令を飛ばした。
飛んだ指令を受けた口は、一度だけ躊躇してからそれを振り払って開く。
白鳥のように本当は必死でしている努力で何気ない振りを装って発したそれは、何の変哲も捻りもない呼びかけだった。


「ねぇねぇ、西方さん」


驚かさないように、抑えた音量での声。
それでもあまり会話を交わす事もないこちらの呼びかけに、予想以上に驚いた様を見せて顔を振り向けた人は、数秒、無言で目を見開いていた。
まともに合った視線。
怯む理性を心が今度は蹴飛ばして、次の言葉を押し出した。
「あのさ、昨日図書室に居なかった?」
「・・・え?あ、うん、居たけど・・・あれ?西山さんも居たの?」
「あー・・・居たっていうかさ、一番奥の棚の隅で本ぱらぱら捲ってたら、つい真剣に読み出しちゃって、そこでしゃがんでてさ、流石に足が痛くなったから椅子に座ろうかと思って棚から這い出したら、なんか西方さんらしき人が丁度出てくとこ見たから、もしかしてと思って」
笑いながら、軽い口調で、事実にほんの少し事実でない事、つまり嘘を交えて話せば、驚きと・・・多分、少しの警戒を滲ませていた表情は、途端に理解と安堵、それに笑みを滲ませる。
上半身だけ捻るようにして顔を向けていた姿勢を、椅子に横座りになる形でもっときちんと私の方に向けて、話をする体勢を取って。
「じゃあ丁度擦れ違いみたいになっちゃったんだ。でも私が図書室入ってから西山さんが入って来るのは見てないから、その前から居たってことだよね。それで私が出てくまでって・・・凄い長時間棚の間に挟まってたんじゃないの?」
「そう、しかもしゃがんでたから足も腰も痺れちゃってさ。立ち上がって這い出る時、変なへっぴり腰になってた」
「分かる!なるよね、それ!なんか一歩一歩が微妙なの」
「そうそう!ってかさ、初めから椅子座って読めばいいのに、どうしてもそれが出来ないんだよね」
「あるよね、それ。何でだか分かんないけど、なんかさ・・・」
「あれはきっと、図書室の呪いだと思う」
「誰が掛けてるの?それ」
「代々図書室でしゃがんで、腰と足を痺れさせた人」
それじゃあ私達も入るじゃん、と笑う姿は楽しそうで、でも多分、話し掛けた私に気を遣って、少しだけ大袈裟な態度を取っていると思う。
まぁ、仕方ない。

だってまだ・・・『西方さん』だから。

少しだけ交わした、私から言い出した図書室の呪いの話。
下らない、互いに信じていないその可能性を議論している最中、ずっと計っていたタイミングで切り出した言葉は、そこに続ける提案にこそ意味があった。
最初の問いの答えは、もう知っていたのだから。

「・・・っていうかさ、西方さんも本好きなの?」
「結構好き。でも西山さんも本好きだったんだ」
「そうそう、好き好き。・・・っていきなりなんだけどさ、なんか、こう・・・『さん』付け、止めない?なんか、わりと話してても鬱陶しいっていうか」
「まぁ、鬱陶しいって言えばそうだけど、でも二人とも『ニシ』だから・・・」
「いきなり『仁美』『梓』は辛いしね」
「そうそう」
「じゃあ・・・まず初めは『さん』付けをなしにしない?名前だけにするとか」
「『西山』に『西方』?・・・うん、それがいいかも」

話の流れは簡単に希望通りの結論に辿り着く。
これはもう、計算なんて難しい事をせずとも届く、結末。
だって否定される理由なんてないし、またそれくらいの強い意志を持たれる覚えもない。
予想ではなく、知っている。
この人の、そういうところは私と同じ。
ある種の、事なかれ主義だ。
あまり格好良くない主義に、だけど今だけは感謝して・・・笑う、返された笑みに更に笑みを深めて。
あまり話した事のない相手に互いに気を遣って、少しだけオーバーな態度を取りながら、重なっていく会話。
思ったより調子良く交わされるのは、話題が共通しているから。
でもそれも長くは続かない。
一時間目の始まりまで、あと何分もないから。
横目でこっそり窺った、壁に掛かった時計。
その針の進みを本気で疎ましく思いながら・・・動かした視線、話す相手に戻そうとした時、視界に入ったモノ。
相変わらず、気づかなかった。
今の、今まで。
・・・でも、視界に入れたのは一瞬。
一瞬で十分だったし、それ以上入れていたら、視線が合ってしまう可能性があったから。


──色んなモノが、映るもんだよね。


小さく、細く息を吐き出しながら思い出すのは、先日同じ窓に・・・否、鏡の役割を果たした窓に映った、怖気を感じるほどの黒。
あれほどではないけれど、確かに同じ色合いのソレがまた映り込んでいた。
今度は、別の人物の瞳の中に。
映っていたその瞳、同質の黒。
その黒の中に泳ぐ、畸形の魚。
名を、知っている。
きっと、あの魚の名は・・・。




──独占欲。




「どうかした?」
「え?何で?」
「いや、急に笑い出すから・・・」
「あ、笑ってた?いや、実は図書室で読んだ本を思い出してさ」
「面白いヤツ?」
「マジ、面白い。あのね・・・」


人の業は、なんて深い。
アレも欲しい、コレも欲しい。
こっちも欲しいけど、あっちを手放すのは嫌だ、なんて。

自分だけのモノでいて欲しい、なんて。

傲慢、の一言では済まされないくらいの強欲さ。
あのオレンジ色の鏡に泳いでいた美しい畸形も、今すぐ傍の鏡の中、今まで大して話もしたことがない人間が、急に親しげに自分のモノと話している様を不快を思う、揺れる黒も。
揺れた黒を見て、嗤う私も。


うん、でも。


「・・・あ、鳴っちゃった」
話の途中、終わりを告げる始まりの音。
気づかずにはいられないそれに、零れるような呟き。
それに同意を返して、掛ける、誘い。
「そうだね。あー、朝から数学ってダルイ」
「まーね」
「って、ねぇ、あのさ、今度一緒に図書室行かない?本の事、話せる人あまりいなくって。そんでそこで自然に『西方』『西山』呼びが出来るように練習しようよ」
「何それ!」
上がる笑いは、最後のふざけた提案の所為。
本当はふざけてないけど、ふざけた振りをしたそれは・・・でも簡単に了承を得る。
いいよ、行こう・・・と。
それを最後に、身体を元の向きに戻してしまった人の背、そこに在る、もう見慣れてしまった結び目を見つめてからそっと窺った横。
すでにこちらを見ていない人の横顔、映る不愉快そうな表情。
そしてそれより鮮明に映る、笑みを含んだ自分の顔。


──でも、思うのだ。
人の業が深いなら、それは人が背負って歩くべきモノで、あの深い海もそこを泳ぐ畸形のモノ達も、なくして生きてはいけないのではないかと。
それならば・・・きっと、自覚して、向き合う覚悟をした者が一番有利。

私は、自覚した。
自分の中に漂うのではなく、その意志で泳ぐソレを。

彼女の海に、新しい魚を投げ込んだのは別の人。
でも、見つけたのは私。
憧憬に近い何かで見つめていた二人は、見つけた時に近くなった。
消え失せたのに近い。
だって憧憬なんて届かない感情でなくて、もっと強烈な感情がここを泳ぎ始めたから。
・・・あんなに綺麗なモノを、片手間に自分のモノにしておこうとする方が悪いのだ。
そんなずるい事、させたりしない。

私だったら、させない。


驚きは憧憬に。
憧憬は怒りに。
怒りは失望に。

失望は・・・切望に。

そして、抱いた切望が叶う、それはもう現実に。



きっと、近いと呼べるぐらいの未来、私は私が抱いた憧憬の光景の当事者になっている。



その時、私達が『西方』『西山』と、苗字で呼び合ったままなのか、別の渾名をつけているのかは分からない。
もう一人の彼女がその場にいるのかどうかも。
でもそれらはどうでも良い事。
今は歩むだけだ。




訪れる、その光景が映るのを。