long1-3

ただ、断じて誓うが、その日、私が放課後真っ直ぐに帰らなかったのは別な意図があったわけじゃない。
元々私は活発的に遊び回るより、自宅で一人本を読んだりしている方が好きなのだ。
変化を望まない、消極的な人間にありがちな性質故に。
だから偶に足を運んでいたし、何となく寄りたい気分になったとか、そんな他愛無い、不意に沸いてきた泡みたいな思いつきによってそこに足を運んだのだ。
ちょっとしたきっかけで割れてしまう泡が、その時は割れなかった。
そんな馬鹿みたいな、偶然。
何も考えずに流されるように訪れた場所は、上の階の一番奥にある、図書室。
上級生のクラスがあるフロア‐だから緊張してあまり近付けないので、放課後以外に来た事はなく、ドアが開いたままの室内へ入る時も、中にあまり人がいませんようにとお祈りして入ったのだ。
そのお祈りが、聞き届けられなかった事はあまりない。
主観によるものだが、多分、元々この学校には本を読む人種というのが少ないのだろう。
だからこそ、足を踏み入れたその場所はいつも通りひっそりしていた。
それなりに広く、机も椅子もあまり使われない所為か綺麗で、人さえ居なければ居心地の良い室内。
司書ですら貸し出しカウンターではなく、その奥の図書準備室にいる方が多く、貸し出しをしてもらう際は態々その準備室にいる司書に声を掛けるという謎のシステムを構築していたりする。
つまり、そのくらい人気が少ない場所なのだ。
入ってすぐにあまり感じられない人の気配に、人数を確かめる為だけにざっと流した視線は、点々と、十分すぎるほど距離を取って座っている数人の生徒を捉え、次いでカウンターに移り、いつも通りそこに司書の姿がない事も確認。
何となく、司書に『監視者』というイメージを抱いている為、いつも通り不在の状態を見届けて少しだけ安堵すると、まず向かったのは、お気に入りの日本人作家の作品が置いてある、一番奥の角。
整然と並んでいる机、付随する椅子、そのどれに座られても死角になる場所で、誰の視線も届かない事実にのんびりとリラックスして本を物色する。
一冊ずつ手に取って、あらすじを読んだり初めの数ページに目を通したり。
それで気に入った本を選んで借りていくつもりが、気がつけばその場にしゃがみ込み、試し読みではすまないほどのページを捲っていたりするのは私の悪い癖だ。
悪い癖、とは言っても、誰に迷惑を掛けるわけでもないのだが、私自身に対して悪いのだ。
だって棚に囲まれたそこは暗くて目に悪いし、だいいち、中途半端な姿勢でしゃがみ込んで本に集中しているものだから、足が痛い。
ついでに、腰も腕も痛くなってくる。
それならもう手にしている本を借りてしまえば良いと思うのだが・・・一度読み始めたらキリが良い所、否、キリが良いと思えるところまで読み進めないと気がすまないのが読者というもので。
足の痺れが限界に達したあたりで諦めて立ち上がり、それでも諦めきれずに手にしていた本と、他に気になっている本幾つかを棚から引き出し、一番近い机に向かった。
今読んでいた本を、満足いくページまで読む為に。

──いきなりだが、一つだけ言わせてもらうと、本は好きだが私の読む速度はそれほど早くはない。
だから気になってしまった本をそこまで読むのに、そう大したページ数ではないけど結構な時間が掛っていたと思う。
一時間は掛ってないけど、三十分以上は掛っていた。
その間、完全に周りをシャットダウンして、自分の世界に入り込んで。

本を読むという行為は、現実からの逃避、現実へ立ち向かう決意、その二つを交互に行なうのに似ている。

戻ってきた世界、また本の世界に行く為に棚の合い間から抜け出した先は、周囲の窓から無遠慮に注ぎ込まれた夕日で何処もかしこもオレンジ色に塗りたくられていた。
眩しいようなその色に、一瞬眉を寄せて立ち尽くしたのは、オレンジ色の世界では本を読むという行為がし辛いと経験済みだったから。
・・・でも、その一瞬に救われた。
誰に、何を、どうやって救われたのかすら分からなかったけど、とにかく救われたと思った。
なんせ、寄せた眉を元に戻し、とりあえず椅子に座るかと視線を近場の机に向けた時、始めて気づいたのだから。
もし足を止めなかったら、きっとそのまま直進して、机に持っていた本を置いた段階でようやく気づくぐらいだっただろうけど。
でも、気づいた。
棚の合い間から完全に抜け出す直前に、気づけた。
目の前にある机、本当だったら私が座る予定だった椅子。
そこに、オレンジ色では染まりきらない黒が在る事に。

・・・一番良く見ていたのは、その背と一つに纏めた黒い髪。

見間違えるはずのない存在に、動きの止まった身体を反転させて極力音を立てないように棚の奥に戻ったのは、心臓が震えるような衝動の所為。
驚愕と評しても良いようなそれが、咄嗟に取らせた行動だ。
逃げるように・・・いや、実際に逃げる意図で戻った棚の奥、痺れているはずの足で手にしていた本を抱え込むようにしてしゃがみ込み、短い距離の間に上がってしまった心拍数を必死で整えながら浮かんだのは感嘆。
本が好きなのは知っていた。
だって背後からでも、よく本を読んでいる姿を目にしていたから。
でもそれならこの場所に来ている可能性も十分に考えられて、実際、こうして来ていたのだろう。
それなのに今の今まで遭遇しなかった、その事実に奇妙な感嘆を感じずにはいられなかったのだ。

今、この時期のこのタイミングで遭遇した、その事実にすらも。

・・・それとも、今だから見つけられたのか。
整えた心音を感じながら立ち上がり、ふと思う。
もしかしたら今までも鉢合わせになっていたのに気づかなくて、今になって見つけたのかもしれない、と。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
立ち上がったまま視線の先、棚に隠れて辛うじてそんな事は少しだけ見える相手を一度確認してからゆっくり足を動かしつつ息を洩らす。
今まで遭遇した事があろうとなかろうと、それは今はどうでもよいのだ、きっと。
どうでもよくない事があるとするなら、それは・・・今、彼女に遭遇した、この事実だけなのだから。
動かした足は、並んだ棚をいくつか通り過ぎた。
部屋の奥、彼女が座っている席から遠ざかるように。
そしてもういいだろうと判断した辺りで再び棚の合い間を抜け出し、顔だけをそっとそこから出す。
横長の机、その端にある椅子に座っている彼女。
丁度その机の反対端がすぐ目の前に来る位置で顔だけを少し突き出している私の姿は、端から見るとかなりおかしかったはずだ。
ただ、元より人の少ない図書室に、そんな不審行動を取る私を注視する人間はいなかった。
注視されている、当人を含めて。
だから暫しの間じっと見つめて・・・迷う、どうすべきかを。
自分の存在をあまり気づかれたくはない。
というか、気づかれた後どう反応したらよいのかが分からないから、ちょっと遠慮したい。
でも見なかった振りをして出て行くには、あまりにも気になる存在なのだ。
アレ以来、とても気になって、こうして初めてこの場所で目にして。
突き出していた顔をそっと元に戻し、小さな溜息。
棚に背を預けるようにしながら零したソレは、音もなく地面を転がった。
姿の見えないソレを追いかけるように視線を床に流して、それから下から目の前の棚を這うように上げて。
でも流した視線、その瞳に映っているのは目の前の棚でもそこに収められた本でもない。
勿論、床でもない。
浮かんでいるのはついたった今見ていた光景、オレンジ色に染まった横顔と、全く染まらない黒いままの髪。
机に広げた本を片手で押さえ、もう片方の手で肘をついて、その手の上に顎を乗せるようにしている姿は、この間、教室で見かけたのと全く同じ体勢だ。
他に誰もいない長机に、たった一人。


──たった、一人。


やっぱり、今まで見かけたことはないんだ。
先ほど感嘆し、また同時に納得した事柄を真っ向から否定した確信が、ふいに胸に落ちた。
でも間違いないと思う。
だって彼女達は二人一緒で、学校に来る時も、学校にいる間も、帰りも一緒で。
常に一緒に行動していたその存在は、一人ならともかく二人もいたら絶対に気付いたはずだ。
でも気付かなかった。
それなら、今まで見つけなかったのではなくて、やっぱり遭遇したことがなかったということで、だけど今、こうして見つけたのもまた偶然ではないはず。
・・・たった一人、そう、たった一人なのだ。
これは他の皆も知っている、あの彼女は、荒井桃子は、最近彼氏である生徒会長の『リュウ君』と一緒に帰っているのだ。
この手の話に首を突っ込むのが大好きな女子が囃し立てていたから、間違いない。
彼女達は、帰りは一緒に行動しなくなったのだ。
だからこそ、彼女はここにいる。

そう思ったら、いっそうこの場から離れることが出来なくなった。

目の前の現実、それらを何一つ映さない瞳を閉じ、再び小さな溜息。
落ちたそれは、親しくもない人へ対する自分の関心、その不思議なほどの強さへの疑問に等しかった。
初めは純粋な興味。
ついで、憧憬と呼べるような羨望。
それなら、今は?
・・・多分、今は落胆を煽るような怒り。
理不尽な裏切りを受けたと勘違いするような、強い、強いそれ。
開く、瞳。
今度こそはっきりと映る床に、笑ってしまうくらい揃った己の爪先。
──私は、きっと。


憧れを汚された、そんな幻想を見ている。


ずっと、一緒にいてくれればよかったのに。
信じてもいない永遠とか、本当の友情とか、そんなモノがやっぱり実在しないのだと目の当たりにさせられている気がして、無性に腹立たしいと感じた。
当事者でも、ないのに。
信じてもいないのに、信じたかった、ずっと見ていたかった、そんな自分の希望だけで。
叶わず、今、独りでいる人、真っ黒の、表情のない眼差し。
今、どんな色をしているのかと、そう思って・・・再び、首を伸ばしたのだ。
亀みたいに、彼女に向けて。
相手に気づかれないようにそっと起こした行動は、目論見通り気づかれずに。
顔を半分だけ突き出した先には、先ほどと変わらぬ彼女の姿がある。
そして・・・あの時も、最初は気づかなかったそれに、その時ようやく気づいたのだ。
窓際に位置する席、そちらの方へ向けていた視線、だからこそ、映り込んでいた彼女の顔。
浮かんでいる表情、窓を通り過ぎてどこか遠くを見つめる眼差しと瞳の色。
あの時は、視線が合いそうな気がしてすぐに逸らした。
でも、今はその必要がないのが分かる。
何故なら彼女の瞳は、眼差しは、この場所に残っていなかったから。
でも、他人に向けるにはあまりにも不躾な、長時間の食い入るような視線を向けていたのは、いくら見ても大丈夫だという安堵があったからではないのだ。
ただ単純に・・・見えた、それに魅入られていただけで。
感じていた怒りとか、不満とか、そういった諸々を忘れてしまうほどに。
隠れて覗き見ているとか、そんな事実すらどこかに捨ててしまったように。
興味を抱いていたのだと、その過程すらなかった事になるほど、目にしているモノが全てになる。

──どう、説明したら分かってもらえるのだろうか?

一目惚れとかは大抵、容姿とかの外見に由来するモノだし、優しさに惹かれたとかは実際に起こされた行動によるものだ。
そういう理由なら、分かってもらえるだろう。
たった一人に、意識や心と呼ばれるモノが惹かれていく様を。
でも・・・そうじゃ、なくて。
そうじゃなくて、そういう惹かれ方じゃなかったあの状態を、尋常じゃない程の早さと強さでの惹かれ方を、どれだけ説明しても分かってもらえそうにない。
分かってもらえるような言葉が、この世に存在するとは思えない。
ただそれでも、説明する事がそれを見た人間の責務だとするならば、持てる全ての言葉で語れと言われるならば。
実際に見たことはないけれど、あれはきっと・・・。





──人が到達し得ないはずの、深海の光景に似ている。





硝子が鏡に成り代わり、その鏡に映り込む、ここにはない眼差しを浮かべた瞳。
直接ではなく、鏡越しだからこそ見えた、その鮮やかな淋しさ、嫉妬、虚しさ、哀しさ。
見ることが叶わないはずの場所、見てはいけないモノを目にしたと、理解していたけど、目が離せない。
誰も見れないはずの、侵さざる領域を泳ぐ、色とりどりの深海魚のように、その鏡の、瞳の中に泳ぐ感情は、あまりにも眩く。


美しい畸形を成し、潔いほどに醜い。


泳ぎ回る、それらの名前の全てを知るなんて私には出来ない。
ただ幾つかは、分かると思う。
少なくとも、分かったと思った。

疎外感とか、悔しさとか。
虚しさとか、脱力感とか。
哀しさとか、侘しさとか。

今、たった独りでいるという孤独感とか。

孤独を感じさせられる憎しみ。
憎しみを感じる事実に対する疎ましさ。
自分に対する劣等感に似た、絶望。

でもきっとまだまだあるのだ。
追いきれない、無数のそれらを私が捉え切れないだけで。
見蕩れて、捉えようとする意識さえ持てない程に。

分かるだろうか?
分かって、もらえるだろうか?
行けないはずの、見れないはずの場所を目にした時の、身体が震えるような、涙が溢れるような感情を。
そして、この世にどれだけいるだろうか?
深海に到達出来た者が、その場所を知る者が。



人の心を、垣間見た事がある者が。



きっと、いない。
いたとしても、僅かとすら言い難い程の数だと断言出来る。
だからこそ、どれだけ言葉を尽くしても分かってもらえるわけがないのだ。
殆ど誰も使わないような言葉、表現、そんなモノがあるわけがないのだから。
・・・だから、分かってもらえるわけがない。


惹かれていく、私の深海なんて。


私自身、見ることが叶わないそこで、確かに新しい命が生まれる予感がしていた。
いや、予感ではなく確信。
もう・・・息吹は、そこに。