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小さな小さな雑貨店の店主となって、早数年──。

うちの店は、町の物凄い片隅にあるしがない雑貨店だが、実は古さだけは結構あったりする雑貨店だ。
これが技術や伝統を受け継ぐような店なら、『歴史のある』と評すところだが、残念ながら本当にただの諸々な雑貨、
つまり他の店にも売っているような物しか売っていない店の為、歴史なんて大きな単語は使えない。
結果、古さだけはある、という表現になっている。

まぁ、それは別に良いのだ。自分が生きてきたという歴史以外の歴史なんて、重くて背負う気がしないから。

強がりでもなんでもなく、これはごく自然な気持ちで、古いだけの我が雑貨店を卑下しているわけでもない。
一応、古いだけでも細々とでも、長々続いているのはそれなりに凄い事だと思っているので。
継続は力なり、みたいな感じだ。
勿論、継続してきたのは代々の店主たちであって、引き継いでまだ数年の私ではないが。
それでもたかが継いで数年の未熟な店主でも、まぁ、ある程度の心構えはある。
続いているものを、私の代で潰すわけにもいかないなぁという、ざっくりした使命感みたいなものだ。
だから心がけているものもいくつかある。
そのうちの一つが、とても当然のことではあるが・・・、お客様を大切に、というヤツだ。
古さだけはかなりあるので・・・、うちにはかなり昔から来てくださっている常連様が複数いらっしゃる。
勿論、どのお客様も大切にしているが、特に常連様達は物凄く大切にしているのだ。
長いお付き合いがあるから・・・、というのもあるが、もう一つは、過疎化が盛大に進んでいるため、我が町には人口が増える予定があまりない。
つまり新規のお客様がいらっしゃる予定もあまりなく、昔からの付き合いだけがうちの売上を支えているのだ。
その為、長年うちを支えてくださっているお客様を代々の店主、勿論、私も、とても、とても大切にはしている。

──但し、店を継いで十年と少し、定連さんはずぅーっとお子様でいらっしゃるのだが。

「いらっしゃいませ」
開けるたびに微かに軋む木製のドアが開かれるのと同時に、暗い重々しさはないが、動くのが億劫ですと言いたげな重さを滲ませた鐘の音が響く。
ドアの内側に取り付けてある、来客を示すチャイム代わりの鐘の音だ。
響く、というよりその音色通りに、地面にどたっと落ちました、と言いたげな聞こえ方をするそれは、正直、今はあまり役に立っていない。
理由は、音がなくともドアを開く時の軋み音だけで来客が分かってしまうからなのだが、外さなくてはいけないほど煩いわけでもないし、態々工具を持ち出して外す事もまた、面倒なのでそのままにしている。
これも引き継いだ一部なのだ、と自分の腰の重さを誤魔化す適当な理由を掲げているそれは、三回ほど義務を果たした後、疲れきった様子で動きを止める。
実はこの店は一事が万事、この調子だ。
建物も備品も全てが続いた古さの中で妙に頑張ってしまうので、変える機会も持てず、何もかもが疲れきって存在している。
そんな雰囲気を漂わせた物に囲まれている所為で、店を継いだばかりの店主たちですら、最初から何となく古びて疲れているような佇まいになってしまう。
別に皆、そんなに高齢でこの店を引き継ぐわけではないのだが。
かくいう私も、実は古びている。ちなみに代々の店主同様、継いだ時から古びている。
・・・まぁ、良いのだ。この店では新しいものは異質なものになり、店に馴染んでくれないのだから。
時を刻む壁掛け時計も、客が少しだけ休む為のたった一脚だけの木製の椅子も、その椅子と揃えの小さな丸テーブルも、品を置いた棚も、レジを置いたカウンターも、全てが古い、揃えで、古い。
時計は動いて、店主も変わって、時代は確実に進んでいるのに、この場所だけは何も進まず、本質的に何も変わらない。
古い、古い、古い店。

──実はあまりに古い所為か、物語として描かれた事すらある店だったりする。

嘘のような本当の話だが、絵本として描かれていた。
しかもわりと全国区の、有名な絵本になっているのだから、世の中、何がどうなるか分からないものだ。ただ、こんな古いだけの店なのに、それこそ嘘のような本当の出来事が起きた為、それを偶々知った絵本作家の方が描いてくれたらしいのだ。
ただとても残念な事に、あまりに嘘みたいな出来事だった為、実際に起きた話だと思ってもらえないうえに、店が先から述べている通りあまりに古すぎる所為で、この店がモデルとなっている店、物語の現場であると信じてもらえないのだが。
それでも、この店がその絵本のモデルである事は事実なのだ。誰も信じてくれなくとも、間違いのない事実。証拠となるような事実もあるぐらいなので、間違いようがない。そして、その間違いようのないほどこの店をモデルにした絵本のタイトルは・・・、

『手ぶくろを買いに』といった。

「今日は何をお探しですか?」
「っ!」
「新作の手袋が入荷していますよ。ご覧になりますか?」
「・・・っ!」
「はい、こちらにありますよ」

嘘のような本当の話。
嘘というより戯言に聞こえるかもしれないそれは、しかし本当に、本当の、事実でしかない現実だった。
その証拠とし、訪れる、小さな常連様達は・・・、

服の下からふさふさの、気持ち良さそうな尻尾が見えていたり、差し出す片手が可愛らしいぬいぐるみみたいな形状だったりするのだから。

これってどうなんだろう? と常々思ってはいるのだが、いらっしゃった本日の小さな常連様は見えている真っ白い尻尾に気づく様子もなく、楽しげに新作の手袋を手にとって眺めている。
手袋を取り上げた手のうち、片方が人間に化け損なっているのだが、手袋に夢中すぎてそれにすら気づいていない。
一応、この小さな常連様達が訪れるのは必ず他のお客様が訪れないような遅い時間、間もなく閉店という頃合なので、店の中で他の一般客と鉢合わせになることはないのだが、この油断しすぎの姿は本当にどうなんだろうと思うのだ。
もっとはっきり言うと、『親の教育はどうなっている?』と言いたいのだが。
確かにご先祖様はお金さえ本物ならどんな相手だろうとお客様です精神で何も言わずに商品を売ったわけだが、だからといってもう遥か昔の出来事に今もって安心していてはいけないと思う。
大体、あの時、買い物に来た子供の親は、元々人間に不信感があったはず。
だったら一度の出来事で安心しないで、よくよく言い伝えるべきではないだろうか?
人間には極力近づかないようにとか、近づく時はくれぐれも気をつけて化けなさい、とか。
そしてそれ以前に、思わずにはいられないのだ。
あの時の親は、どうして自分ですら怖いと思う人間の元に、子供一人で送り出してしまったのだろうか、と。

・・・まぁ、その時から今に至るまで、何事もなくお客様として接している、自分を含めた代々の店主にも問題があるのかもしれないが。

この店は大丈夫って認識になって、それで注意力も散漫になったんだろうけれど・・・、それはそれで、どうよって感じなのだが。
まぁそれでも、この子達が他の、心無い人間に傷つけられるような事さえなければ良いかと思うし、とりあえず今も昔同様、過疎地の代名詞みたいなこの地なら、そうそう簡単に変な人間に捕まって困るようなこともないだろうとも思う。
だから極論を言えば、現実問題、困っていることはおそらく一つだけなのだ。
商売として、困っていること。
お客が来なかったり、商品が売れなかったり、お金をもらえないとかではなく・・・、あれ以来、真夏だろうとなんだろうと、年から年中を手袋を用意しなくてはいけない事だ。

そして、「どうして真夏に手袋なんて並べているんですか? しかもこんなに沢山」等と人間のお客様に総突っ込みを受けることだ。

・・・季節を問わず人気商品なんです、と答えられないのが辛いところだ。
一体何故、真夏でもあの子達が手袋を買いたがっているのか、自分も含め、代々の店主も理由がさっぱり分かっていないのだから、そもそも答えようもないのだが。
「・・・っ!」
「あぁ、そちら、お気に召しましたか? サイズ、大丈夫ですか? 一度試してご覧になってください」
「・・・!」
気がつけば、すぐ足元で本日のお客様が嬉しげに一組の手袋を差し出している。
ちなみに、左右バラバラの形をしたままの手だ。
その手を見下ろしながら、営業スマイルを貼り付けて試着を勧めるのは、勿論、人間用の手袋が人間に化けていない、本来の手のサイズに合うのかどうかを試してからでないと、買っても使用できない可能性があるからで、自分の商品がきちんと使ってもらえないのは哀しいことだからこその進言でもある。
小さなお客様は、こちらの進言に嬉しげな顔のまま頷くと、跳ねるように弾んで白いふわふわの尻尾を揺らしながら、早速手袋の試着を始める。
こちらの目に触れる目の前で、思いっきり人間ではない方の手での試着を。
・・・確かに試着は勧めたけれど、出来たら隅っこの、私の目に触れない場所で試着してほしいんですけど。
小さな呟きは胸の中に。
あまりにも無防備な仕草に、全てを見えなかったことにすべく、そっと視線を窓の外、深い夜に星が煌く美しい空に逃して零しそうになる小さな溜息も喉の奥に押し込める。
この店を引き継いで、一体幾つ飲み込んだのかもう数えるのも馬鹿らしくなってしまうような溜息を。

季節は夏の大三角、こと座のベガ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイルが夜空に煌く時期。

・・・今年も、去年以上の熱帯夜だった。