short5-2

畑井田明人(ハタイダ ミント)、という、男子にしては少し変わった名前が、ソイツの名前だった。明人、もうチョコミントが好きなお母さんがつけたとしか思えない。あとは、明るく育ってください的な願いも込められているのかもしれない。生憎、物凄く明るい人間に育ったようには見えないけど。大人しそうな、言いたい事が喉の奥に詰まりそうな、そんな顔をしている。まぁ、さっきは奇跡に近い感じで大声が迸っていたけど。
とはいっても、今はそんな事、どうでもいい。たぶん、今以外になってもどうでもいい。どうでもよくないことは、突き詰めればたった一つだった。そう、たった一つだけ。

コイツの所為で、私が自由になれないでいるという事。

力の存在を自覚した途端、まるで頭の中に直接説明文を焼きつけられたかのように、はっきりと分かった。私という存在に、見えない縄みたいな物が巻きついている事、その巻きつく縄が一定の長さしかなくて、それ以上の自由がなくなっている事、縄の端を持っているのが、コイツだという事。そして・・・この縄が、私に対するコイツの強い、強い、馬鹿みたいに強い感情によって作られているという事。もう、無駄なもの。だって私は死んでいる。それなのにどうしてこんなに強い、縄みたいな感情に巻きつかれなくちゃいけないのか?
つーか、死んですぐはなかったじゃん、こんなの。
何か、凄く納得いかない諸々の感情を抱えたまま、口からは自然と重い溜息が零れた。でも息を吐き出しても、身体に巻きついている重みを持った何かは離れない。それが、鮮明な実感として感じられる。
「あの、沼野、さん・・・」地面に落とした溜息を転がしていると、隣からいかにも恐る恐るといった感じで呼びかけられる。勿論、相手は畑井田明人。ついでに場所は未だに、私の、というか沼野家の墓の前。ついでのついでに、現在、私は何かを投げ出して沼野家の墓石の上に座っている。もうバチが当たろうがどうしようか知ったことか、という気分。でも、もし当たるとするなら、この事態の原因になっている奴に当たればいいのに。
『なに?』
我ながら、不貞腐れた感情が剥き出しの声だった。生きている頃だったら、どれだけ腹が立っていても機嫌が悪くても、ここまで感情的な声は出さなかった。感情を顕わにすることは、私が大っ嫌いな面倒事を引き寄せるから、出来るだけ抑えるようにしていたのだ。でも・・・もう、抑える必要なんてない。だって、死んでるんだし。
「ゆう、れい・・・なんだよ、ね?」
『他に何に見えるわけ?』
「え? いや、なんか、普通の人みたいだから・・・ちょっと、重力が足りない感じはするけど・・・」重力が足りなそうに見えるってことは、すでに普通の人じゃないだろ、という罵倒は、一応、飲み込んだ。たぶん、生きていた頃の反応が、まだ私の中に残っている所為。「死んじゃって、るんだよね?」それなのに、せっかく飲み込んでやったのに重ねえられた問いに、微かに限界の足音が聞こえた気がした。
『・・・そう。死んだの。死んじゃったの。もう生きてないの。だから手でも合わせたら、帰ってくれない?』
聞こえてきた足音を無視するように何とか言い終えた、それが全てだった。言いたいことの、言わなくてはいけないことの全て。少しだけ、すっきりする。すっきりして・・・見た先には、突っ立ったままの男子がいる。突っ立ったまま、思いっきり目を見開いて・・・肩を震わせながら泣いている、畑井田明人がいる。
「お、れ・・・ずっと、ずっと・・・ぬま、のさんのこと・・・気に、なってて・・・でも、話も、したことなくて・・・こ、こうつう、じこだって聞いて・・・せめて、花ぐらいって、それで・・・でも、そうしたら、沼野さんが、いきなりいたから・・・」
震えている手には、あの白い花が握られたままになっている。私の為に買ってきたらしい、花。昔、死んだ人間に花なんて供えても意味ないだろうと思ってたことを、思い出す。思い、出す。
「俺、沼野さんが、好きなんです・・・」
きつく目を瞑って、掠れた声での二度目の台詞。二度目の台詞で、一度目も聞いていて、それなのに・・・何故か今になってようやく、実感を伴って理解した。言われている言葉の意味を、認識した。囚われている、奪われている、そんな思いが強すぎて、一度目は上手く認識出来ないでいた、思い。
人生で初めて、告白というものをされているらしいことを、知った。人生が終わって、初めての、告白。
・・・変な、感じだった。居た堪れない、むず痒い、中途半端な笑みが浮かびそうになる、そんな感じ。さっきまで感じていた腹立たしさや苛立ちが一旦、脇に退いて、その変な感じに道を譲る。堂々と歩いているその感じは、変ではあるけど、凄い悪いわけじゃない。悪い、わけじゃない。告白。好き、という気持ち。男子にそんなこと言われたのは、勿論、初めてで、男子以外でもこんなにはっきりと好意を告げられたことなんて、たぶん、なくて。
悪い、わけじゃない。
「もう一回、会えたらって、本当に、そう、思ってたんです。ちゃんと、言えばよかったって、少しくらい、話しかければよかったって・・・好き、なんです・・・」
切々と重なる言葉に、視線が定まらなくなる。感情が、波の形に揺れ動く。死んでいる人間に向かって、何を無駄なことを言っているんだと思わなくもない。馬鹿らしいと、思わなくもない。でもそれなのに、明らかに面倒な言葉の重なりを、不快には思っていない自分に気づいていた。悪い、わけじゃない。悪く、ない。
これが、好き、という感情の力なのかと感心すらする。幻想だと、勘違いだと確信しているのに、悪くないと思わせる、力。一時だけの、たぶん、嬉しさ。そこはかとない、幸福感に似たもの。曲がって歪んでいるものを、柔らかに真っ直ぐにさせる、そんな効果があるもの。
『気持ちは・・・うん、まぁ、嬉しい、と思う。・・・ありがと』
酷く素直に、言葉は零れた。曲がっていた、歪んでいたものが、とても素直に伸ばされて、その所為で零れたんだと思う。自分の声なのが疑わしいくらい、柔らかな声。穏やかな声。嬉しい、そう、やっぱり、少しは嬉しかった。嬉しいと、思えた。誰も、本当に誰も好きじゃなかったし、それはそれで全然構わないと思っていたけど、でも好かれていたっていうのは、やっぱり嬉しいものらしくて。『でもさ・・・、私、死んじゃったから・・・ごめんね』いつもだったら絶対に出てこない謝罪の言葉すら、酷く軽やかに躍り出た。弾むような足取りで。素直に、本当に素直に思ったのだ。悪かったな、と。死んでしまって、悪かったなと。じゃあ生きていたらどうなんだと聞かれたら、絶対に答えられないくらいの軽い気持ち。ごめんね。でもこの一言で、まるで自分が偉大な成長を遂げたかのような気分になった。もう、死んでいるのに。
・・・たぶん、こういうのを乗せられた状態、と言うのだ。
「沼野さん・・・」男子は・・・畑井田は、いっそう目を潤ませていた。感極まった状態とでも言うのか、もう、自分の感情以外の全てが制御不能になっているのが見て取れる状態。生きている頃だったら、馬鹿にする状況。今は、しなかった。呼ばれたのは私の名。今は、気分が良かったから。気分が、良かったのに。
「俺・・・忘れないから!」
感極まった、声がした。続けて、「死んじゃってても、俺、絶対忘れないから!」と、何かの創作物の中の台詞みたいなことを喚いていた。たぶん、それはとても、とても感動的な台詞で、なんとも思ってない相手でも、たとえ名前をさっき初めて認識したくらいの相手でも、それなりに嬉しいかもしれない台詞だった。・・・けど、その台詞が私に齎したのは、そういう抽象的なものではなかった。そうじゃなくて、物凄く具体的なもの。
全身を、いっそ笑い出したいくらいの力で締め上げてくる、その力。
突然の衝撃に、息が詰まる。幽霊なのに息が出来なくて、おまけに痛い。理不尽なその力の理由なんて、考えるまでもない。締め上げられた瞬間にも、理解していた。理解、させられていた。延々と、すぐ目の前で悶えている私のことになんて気づきもしないで、ひとり、思いの丈を振り撒いている、馬鹿男。
『ざっけんな! 死んでるって言ってるんだ
ろ、しつけーんだよ! 忘れろ! 今すぐ忘
れろ!』
「えっ? なんで! 思ってるくらいべつに・・・」
『いっ、いいわけ・・・ない、だろっ・・・』
全身に掛かる力を振り払っての渾身の叫びを、馬鹿男が汲むことはなかった。それどころか更に重ねられてしまった訴えに、掛かる力はいっそう強まって。まるで水に濡れたタオルを絞るような、締め上げ。もうないはずの内臓が口からぼろぼろ零れる錯覚を覚えながら・・・喉で詰まってしまった言葉が、行き場を無くして暴れ回るのだけをしっかり感じていた。

恋愛感情なんて、滅んじまえ!

**********

顰蹙を買うから誰にも言ったことがないけど、私が無意味で無価値だと思っているものの一つが、恋愛感情というヤツだったりする。ただの思い込みで、無駄な情熱で、しかも何の価値も生まない。時間の無駄、熱量の無駄。そんな無駄に人生の大半を費やす奴があまりにも多い事実に、人類の終わりを見ている気になっていたくらいだった。
・・・のに、そんな見下してすらいたものに、死んだ後で煩わされるなんて思わなかった。
全く興味がなかったので覚えにないけど、中学一年から今に至るまでの約三年間、畑井田明人と私はずっと同じクラスだったらしい。おまけに何回か、家庭科の調理実習とか化学の実験とかで同じ班になったこともあるらしい。実習とか実験とか、そういったものを面倒事で括っている私が覚えているわけがないけど。
それでも、畑井田の方は結構前から、それなりに私のことを意識していて、同じ班になる度に密かに喜んでいたらしい。・・・全く気づかなかったけど。想像すらしたことがなかったけど。
でも、そんなこと想像するわけがないし、意識するわけもないし、客観的に自分を見て、それは絶対的なほど当然で。だって、普通に地味で、普通に普通な女子なのに、そんな自意識過剰なこと、思うわけがないのだ。私は・・・『沼野紫乃』という人間は、本当にどこまでも普通で、どこまでも地味だから。顔も平均的だし、頭の出来だって普通か、もしくはまぁまぁくらいで、スタイルだって物凄く良くはないけど絶望するほど悪くもないかな、くらい。特別な才能があるわけでもなく、誰とでも仲良くなれるとか、明るくて社交的だとか、人見知りをしないとか、そういう人に好かれる条件を兼ね備えているわけでもない。どちらかと言えば人見知りするし、内向的で、ひとりでいる時間が何より好き、という暗いタイプ。もし他の人と少しでも違うところを言えと言われたら、性格の暗さだとか根性の曲り具合とかが凄いってことくらいか。引かれるから、言えと言われても言わないけど。
だから誰かに知らないうちに好かれている、可能性なんて、考えるわけがないのに・・・何故かこの畑井田は、私のことを好きになったらしく、私が生きている間、本人曰くひっそりと、淡い思いを抱き続けていたということだ。・・・で、私に負けず劣らず地味な畑井田は、告白することも話し掛けることもせず、ずっとひっそり見つめているだけの状態だったらしい。そしてそれが少なくとも卒業までは続けていけるのだと漠然と思っていたのに、当の私がいきなりあっさり死んでしまって、物凄く後悔していた、ということだった。
生きている間、ひっそり思ってたんなら、死んだ後もひっそり思ってればよかったのに。
ほのぼのした喜びなんて何処かに逃げ出すほど、腹立たしかった。あまりの腹立たしさに、歯軋りしてしまう。思った以上に響くその音が聞こえたのか、向かいに正座している畑井田の肩が跳ねて、少しだけ体勢が崩れる。すぐにまた座り直して、きっちり体勢を整えていたけど。
正座・・・つまり、とてもとても畏まった体勢。自分の部屋なのに、畑井田は怒りのパワーで何とか締めつけてくる力を払い除けた私の言葉に従い、当面の話し場として自分の部屋に案内した。それから二人で向かい合って座って以来、ずっとずっと、正座。おまけに視線は落ち着きなく、部屋の中を何度も往復している。自分の部屋に、今更珍しいものが転がっているわけでもないだろうに、何度も、何度も。
コイツは何をしてるんだろう、という疑問は、何度も頭をよぎった。それでも先に確認したいこと、理解させなきゃいけないことが小山程度には積み上がっていたから、敢えてよぎった疑問には触れなかった。代わりに、積み上がっている小山を突き崩すことに精を出す。ざくざく、ざくざく。
『・・・で? 今の状況、ちゃんと理解出来たの?』
「あ、うん! だいっ、じょうぶです!」
『全然大丈夫そうに見えないんだけど・・・』
「いやっ! ホント、大丈夫! 一応、分かったから! つまり俺が沼野さんのこと忘れられなくて、しかもすっごい好きだから、滅茶苦茶好きだから、その好きって思いが強すぎて、なんか、縄で繋がれるみたいに沼野さんが俺からあんまり離れられなくなっちゃってるってことだよね?」
『そう。ってか、離れられないだけじゃなくて、時々、死にそうなくらい締めつけられるんだけど。・・・まぁ、もう死んでるけどね』
「だよね・・・。でも、こうして俺のところに来てくれて・・・」
『来たんじゃないのっ! アンタが勝手に引っ張ったの!』
「だよね・・・」
『だよね、じゃなくって! ・・・あのね? もうどうしようもなく手遅れだから、潔く諦めて忘れてよ。それがお互いのためなの。分かった?』
分からなくても分かれ! ・・・という思いを溢れんばかりに詰め込んだ私の言葉に、畑井田は気圧されたように黙り込む。眉間に情けない皺を三本作って、涙目で見つめてくるその顔は、漫画に出てくる哀れな捨て犬にそっくりだった。生憎、本物の捨て犬を見ても噛まれないように目を逸らして逃げる薄情な私には、一欠けらの効果もないけど。
沈黙が、数秒。何処にも行けない不自由な空気が何層か重なって、崩れ落ちる一歩手前の予感を振り撒いている。その予感の中で、ふと、思う。男子の部屋に上がり込むなんて、初めてだと。生きている間に出来なかった経験を、したくもないのに死んだ後、している現実。なんでこんなことになってしまったのかと、後悔に似た感情が、ほんの少し前まで味わっていた、限りない幸福的な自由を懐かしむ。
「沼野さんの言っていることは分かるし、その通りだと思うんだけど・・・」戻りたい時間を懐かしんでいると、まるで独り言みたいな畑井田の声が聞こえてきた。離れていた視線を戻すと、俯いている姿が見える。フローリングの上を所在無く転がっていく視線が。「そうは、思うんだけど・・・」思ってるなら、そうしろよ、そんな突込みが喉の奥で三回転。着地に成功したかどうかは、次の瞬間、分かった。
「どうやったら忘れられるのか、分からないよ・・・」
壁に頭でも打ちつけたら? 真ん中が柘榴の断面みたいに割れるぐらいに・・・そんなブラックな突込みが、素晴しい回転をした後、完璧な着地に成功した。勿論、成功した場所は私の舌の上。とても残念なことに、それより先、口から出すことは出来なかった。流石に、出来なかった。必死で搾り出しました、という顔をしている畑井田があまりに哀れっぽくて、捨て犬から逃走する薄情な私ですら、言えない。
もし相手が私じゃなかったら、純愛ラブストーリーになるのに。思い描いて、溜息。その途端、畑井田の肩が跳ねる。そんなにビクビクするくらいなら、潔く諦めればいいのに。諦めてくれたら、いいのに。
首を限界まで曲げて下を向いている畑井田の旋毛を眺めながら、色んなものから逃げ出しそうな思考を辛うじて繋ぎ止めつつ、考える。どうするべきかを。どうしたいかは、分かっている。自由になりたい。面倒事の一切合切から解放されたい。その面倒事の筆頭たる、人間関係なんかにもう煩わされたくない。せっかく、死んだんだから。
・・・どうにか、しないと。
自分の要望をはっきり数え上げた途端、決意的な思いが込み上げてくる。自主的に何かのアクションを取る事も面倒がってやりたがらない自分にしては、珍しいほど行動的な感情。たぶん、追い詰められている。一度あの開放感を味わってしまったから、諦めることが出来なくなっている。禁断の果実的なものだ。禁断される覚えもないのに、取り上げられる。取り戻そうとしたら、謂われなき暴言の元、また取り上げられる。
どうにかしないといけない。どうにか・・・。私の存在なんて、どうでもよくなってもらわないといけない。好きなんて感情、捨ててもらわないといけない。私のことを、好きなんて感情・・・。
沈黙の中、必死で考えた。我が身可愛さの為だけに、必死で。でも恋愛感情なんて全く経験がなくて、興味もなくて、だから自然と、周りの女子が競うように話していた恋愛話が浮かび上がってくる。あまり意味があるとは思えなかった話の数々。まさか死んだ後になって意味を持つなんて。
自然と瞑った瞼の裏、浮かんできたのは何人かの女子の顔で、溜息混じりに彼女達が訴えるのは、自分が経験したという失恋の話。落ち込んでいます、という態度を必要以上に見せつけてくる彼女達が求めているのが、慰めだなんてことぐらい、恋愛経験がない私ですら分かっていたけど、特に何も口は挟まずにいると、代わりに聞こえてくる、訳知り顔のクラスメイトの言葉。

『新しい恋を見つければいいんだよ』

新しい恋、つまり、新しく好きになる人。恋の痛手を癒すには、恋以外では有り得ない・・・なんて、一体どこのドラマの台詞だと聞きたくなるようなことを言い切っていたのを、思い出す。聞いた時は、半ば失笑した。何かの物真似をしているのか、それともただのジョークなのかとも思った。でも、言っていた当人にしてみれば冗談でも何でもなかったらしく、ある種の自信に満ちた顔は、私の失笑すら振り払った。周りにいて、同じく話を聞いていたクラスメイト達の深い同意すらも得て。
恋なんて、したことない。したくもないけど。でもした事がなくて、したくもなくても、一応私の中にあるイメージでは、それはすることを目的としてするものじゃない。そこにいつの間にかあるものというか、うっかり遭遇するものというか、そういうイメージだったのに、彼女達に言わせると、獲得するものでもあるようで。それが本当なのかどうかはこの際、どうでも良かった。ただ、私が知っているこの事態の解決方法として、そういう知識があるというだけのことで。
「・・・そっかぁ」断言しつつ、実は半信半疑だった提案に、しかし畑井田はあの時のクラスメイト達と同じように、溜息のような声で納得していた。納得、してしまっていた。その様を眺めながら、そういうもの? と、渦巻く疑問に周りを囲まれる。でも、勿論そんなこと、顔には出さない。納得しているならそれは有効な手段なんだろうし、たとえそれが間違った手段だとしても、間違えるのは私じゃないから、どうでもいい。私は、私さえ良ければその他全て、どうでもいいと胸を張って断言出来る類の人種なんだし。
目の前で、正座のまま腕を組み、さっきより更に眉間に寄せた皺の間で何かを考え込んでいる、畑井田明人。おそらく、新しい恋とやらを探しているんだろうけど・・・あまりに真面目な様子に、何故か苛立ちが募り始める。探して見つかるものなのかよという悪態が、喉の奥に用意されている。今すぐにでも、力一杯投げつけられるように。
・・・理由は、知らない。
「それは、そうかもだけど・・・でも、そんな事いきなり言われても、はいそうですかってわけにもいかないって言うか・・・」
『・・・そう?』
「そりゃ、そうだよ。だって・・・俺、他の女子ってあんまり知らないし・・・」
他の女子、たぶん、私以外の女子、という意味。べつに私のことだって知らないはずなんだけど・・・、人間は思い込みの天才だから、それはまぁ、いいとして。少しだけ、胸がすっとした。募っていた苛立ちが、緩やかに霧散する。理由は、知らない。知りたくもない。
「なんか、実はあんまりクラスの女子の見分けがつかないんだよね・・・」続けて洩らさせる言葉は、何の引っ掛かりもなくすんなりと胸の中に落ちた。同じ思いを、私もクラスの男子と一部の女子に対してまで、抱いている。でも、今はそんなことは言えない。言っている場合じゃない。
困惑を滲ませている畑井田を、同意を抱いている胸の内を完全に隠して真っ直ぐ見つめる。その途端に逃げ出しそうになっている視線を目の圧力だけで括りつけ、半ば睨みつけながら開く口は、意識的に高圧的で断定的な形を作る。
『見分けがつかないくらい関心がないなら、一番可愛い子にしとけばいいでしょ』もうそれを選んどけ・・・と、我ながら押し売りみたいなことを、と思わなくもない。「・・・え? 恋って、そういう選び方して決めちゃうものじゃないよね?」だからこそ、遠慮がちになされた抗議に、理解がないわけじゃなかった。ないわけじゃなかったけど、私はただ、私の為だけにこの事態をどうにかしたいだけで。その為だけに、なんとしても新しい恋を、と願っているだけで。願う・・・そんな言葉では生温いほど、力強く。
『そんな選び方でもどんな選び方でもいいから、とにかく新しく好きな人、作るの! そうじゃないと、私が・・・成仏出来ないでしょ!』
成仏なんて、出来るかどうかは分からないし、そもそもしたいかどうかも謎。願いはただ、解放されること。全ての面倒事から。この畑井田からも。でもそれじゃあその気にならないかもしれないから、成仏、なんて聞こえが良い理由を持ち出す。卑怯? それがどうした?
「あー・・・そ、れは・・・悪いなって・・・うん、ホント、そう思うんだけど・・・でも俺、正直、そこまで顔に興味ないっていうか・・・自分がどういうことに興味あるかとか、どういう子だったら好きになるのかってのも良く分かってないっていうか・・・」
『だから? 私、このままだと成仏出来ないって言ってるよね?』
「・・・だよね。うん・・・、あの、とりあえず明日、クラスの女子の中で好きになれそうな人、探すから・・・」
『明日? 私に無駄な一日過ごせって言ってる?』
「だっ、だって・・・今日はもう、学校から帰ってきちゃったし・・・」
吸い寄せられるように横目で確認した窓の外は、もう仄暗い。時間は、既に夕方を通り過ぎようとしている。でも、それがどうしたと思う。どうした、と思う。窓から戻した視線を真っ直ぐに向けるのは、微妙に焦りを浮かべた畑井田の馬鹿面。睨みつければ動揺して視線を揺らすその目を掴まえて、はっきりとした命令の形を取った口は、高圧的な声を発する。
『写真』
「え?」
『集合写真、あるでしょ? クラスの。アレ、出して。それ見ながら私が適当なお勧め教えるから、そこから選べばいいでしょ』
「・・・あの、恋ってそういうものじゃないって言うか・・・」
『早く出せっつーの!』
「はい!」
ぐちゃぐちゃ煩い畑井田の反論は、威圧感を込めた声で押し潰した。明らかに肩を落とした畑井田は、それでも引き出しや棚を探って、茶色い封筒を出してくる。私の前でひっくり返された封筒から零れる、数枚の写真。大きさもまちまちなそれは、どうも写真を突っ込むための封筒らしく、出てきた写真は学校とは無関係なものも混じっていた。その中から、畑井田はばらばらの写真を整えるようにして、一枚の写真を探し出す。大きめの、心なしか色が褪せ気味の写真。
床に、私の方に向けて置かれた写真は、ついこの間の修学旅行の集合写真だった。バックに冗談みたいな緑色の木々を背負い、クラス全員が並んだ写真。それなりに楽しかったはずの思い出は、辿ってみれば面倒だった、という感想に帰着するのだから、もう死んで良かったとしか思えない。私にとっても、きっと、周りにとっても。
・・・あー、でも一人は違うのか。
目の前にいる、たった一人の例外に振り回されている現実を思い出し、つい、溜息が洩れそうになる。でも息を洩らせばその分、力が抜けそうで、力が抜ければその分、自由が遠退きそうで、零れそうになる息を意識して堪えた。その代わり、置かれた写真に意識を集中させる。
男子はどうでもいい。あまり親しくなく、何の噂も聞かない女子も無視。親しくしていて、勧められるポイントがある女子と、親しくはないけど、勧められるポイントを聞いたことがある女子だけが、今は必要。写真の端から端まで何度か往復して、頭の中で数人に絞る。第一、第二、第三・・・予備、他。
『外見重視なら、やっぱりこの二人でしょ。可愛い系と綺麗系で。私はあんまり喋ったこととかないけど・・・男子にも人気あるでしょ? なんか、よく喋ってるところ見るし』
「あー・・・そう、だね。でも喋ってる男子って、やっぱ人気がある奴だけだよ。俺とか、喋ったことないし」
『べつに喋ったことなくたっていいじゃん。好きにさえなれば・・・。ま、あとは中身重視なら、これとこれがお勧め。こっちは桃、荒井桃子って言って、ちょっと間抜けっていうか馬鹿っぽいところもあるけど、基本、性格良いし、面倒見が良いし、行動力もあるし、一緒にいて、楽だと思うよ。あと、こっちは浅倉。ボーイッシュに見えるけど、これで意外と女の子らしいところもあって、責任感もあるし、明るいから一緒にいて楽しいし・・・男子の見方としてどうかは分かんないけど、どっちも結構良い奴だと思う』
「荒井さんと浅倉さんって、沼野さんと仲良いよね。いつも一緒にいるイメージがあるんだけど・・・」
『・・・まーね。まぁ、あとはこっちの早紀ちゃんって、金井早紀ってのがいいんじゃないかなーって思う。この子はね・・・』
話しながら、少しだけ微妙な気持ちになる。普段の私のことを、知っていたんだと思って。私のことを、本当に好きだったんだと思って。今更なのに、なんだかまた、知らされた感じがした。特に知りたかったわけでもないけど、それはやっぱり、嫌な感じではなくて、どこかむず痒いような感じがあった。
明確な好みを出されてないこと、こっちはどうあっても好きな人を作ってほしいこと、この二つがあったから、勧められそうなクラスメイトは出来る限り勧めてみた。噂とか数回話しただけの印象とか、そんな不確定な情報もあったけど、その辺りの事情には目を瞑って話し終えた時には、クラスの半分くらいの女子は勧め終わっていた。本当のお勧めは数人だけど、水増ししたみたいに半分も。
畑井田は、写真に焦点を結んだまま、黙っていた。黙って、考え込んでいるみたいだった。誰を好きになるのかを考え込んでいる? 誰なら好きになれるのかを考え込んでいる?
『ねぇ、どう?』水増しの勧めも終わってから、待てたのは数秒だけ。すぐに聞いてみた感想に、畑井田はゆっくりと顔を上げる。視線を、上げる。再び絡む、視線。でも、向けてくる視線には特に画期的な色は見つからない。だから返事を聞く前から、答えは分かっていた。
「・・・ごめん、なんかいまいちピンとこないんだけど・・・」
『こなくていいから、候補を絞れ』
「えっ?」
『ある程度絞った上で、明日、教室で実物見て、最終的に決めればいいでしょ』
「・・・え? いや、あの・・・」
『決めればいいでしょ?』
「・・・あ、はい・・・」
二度、重ねた言葉に込めた圧力を、畑井田は正確に感じ取ったらしい。何か反論めいたことを言いかけてはいたけど、簡単に屈して頷き、口の中だけで何かを呟いていた。聞く気は全くないけど。『で? どれにする?』ないから、うろうろしている意識をはっきりとした言葉の形に追い詰めた。勿論、視線には圧力を込めたままの状態で。
強要している返事。畑井田の視線は泳ぎ、身体は何処となく後方へ重心をずらしている。まるで、小動物が捕食されるのを往生際悪く抵抗しているみたいに。つまり私が肉食動物? そんな面倒なこと、するわけないのに。そんなことするくらいなら、味のない葉っぱを大人しく噛んでいるのに。
「じゃあ・・・一応、荒井さんと浅倉さん、でお願いします・・・」
か細い声が、聞こえてくる。男のくせに、か細い声が。肩はますます落ちて、頭は支えを失ったかのように、俯き加減に垂れている。見えなくなった口からは、重い溜息みたいなのが垂れていて。『何でその二人なの?』聞いてみたのは、煩い溜息を遮るためだったのかもしれない。ただそれだけのためだったのかもしれない。
「・・・だって、話聞くだけじゃ違いが分からないし、それなら誰選んでも一緒だから・・・」

それなら沼野さんが一番仲良かった女子がいいかなって。

「沼野さんと仲が良かった女子なら、なんか、何となく・・・好きになれそうな気がするから・・・」
ぼそぼそと、遮る溜息の代わりに聞こえてくる声に、真剣な後悔を知る。深刻というほどじゃない。でも、決して軽くはない、後悔。遮らなければよかった。こんな言葉を聞くくらいなら、鬱陶しい溜息を聞いて、それが床を転がる様を眺めていればよかった。その方が、ずっと、ずっと精神衛生上、よかったはずなのに。
何が悪いのかは酷く漠然としていて、二秒先の未来みたいにあやふや。
・・・でも、いつの間にか写真を見つめていた畑井田の視線の先に、誰が映っているのか気づいた時、二秒先だったはずの未来が、一秒だけ、近づく、そんな予感がした。確かに、した。