short4

真っ白な夜が降る。
黒い世界にひらひらと、踊るように、輝くように。
真っ白な夜が降る。
単色だけの味気ない世界に、彩を加える為に。


赤い、紅い華の名を、一体何と名付けよう?


窓の外に絵を描くことが、日常的な暇潰しになっていた。
多分、昔はそういうことをするのが好きだったんだと思う。
でもいつの頃からか好き嫌いの範疇を出ていて、醒めれば虚しい暇潰しになっていた。
大概のものと同じ運命を辿るように。
だから、今夜も同じ。
意味のない紙が散らばっている机に向かっていた椅子を、45度だけ回す。
下ろしていた足は椅子の上に引き上げ、折り曲げて両手で囲って体育座り。でも、体育をしなくなっても『体育座り』なんておかしいから、いつか誰かが他の呼び方をつけてほしいと願っている。
ただ、とりあえずは体育座りをして、正面になった窓を見る。
開ければ、ベランダ。
何も干してない、置いてないベランダ。使ったことなんて、一度もない。出たこともない。
きっと、このベランダへ通じる窓の鍵は壊れていて、壊さないかぎり開かないはず。そういう幻想を誰もが持っていて、だからいまだに誰も踏み入らない。
踏み入らないまま、今日も窓越し、ベランダ越しに夜の世界を俯瞰する。
小さな、限られた四角い世界。
見えるのは、月もない小さな夜空と、両隣との境目を示す衝立、正面に立つマンション、そのマンションの・・・ベランダと、ベランダに面した窓。
名前は、知らない。数えたことがないから、何階建てかも知らない。夜しか見ないから、何色かも危うい。名前なんて、当然知らない。
ただ、知っていることもある。
真正面ではなくて、少しだけ下方に位置するフロア。その、一室。ベランダ。ウチと同じ。何もないそこ。窓の奥は夜が蹲っていて、何も見えないけど・・・知っている、何度も、見たから。

──そこには、茫洋とした白が滲んでいる。

ひらひらと、夜風に靡き、ぼんやりと夜に滲む。
それなのに重石のように黒い糸が絡まりついて、自由に夜を流れることは決して出来ない。
杭を打たれて、立ち竦む。
ひらひらと、その糸すら靡くのに、その場を流れることはない。
沁み一つない、白。
ひらひらと、ひらひらと。
動いている、静止画。
立ち竦む、抜けない、杭。

──立ち竦む、そう、まさに立ち竦んでいたのだ。

いつからか、なんて覚えてない。
通り過ぎるだけの記憶は、手繰った時にはもう何処にも端は存在しないものだから。
幾ら辿っても見えない端を諦めて、ただ毎夜窓に描かれる白を描く。
ぼんやりとした、風に靡く白。
まるでよく出来た冗談みたいだったから、初めは本気でそれが何だか分からなかった。
でも、ずっと何も知らずにいられるほど平和な人間じゃない。
初めの混乱は数秒、切り抜ければすぐにそれが何だかなんて分かる。
靡いていたのは、布。
その白に広がる黒い糸は髪の毛。
流されることなく重石のように静止しているのは、女、だった。

一人の、女だった。

顔を僅かに俯けて、ベランダの柵を両手で掴むようにして佇む女。
靡かせているのは、彼女の長く、重そうな黒い髪。
悪い魔法に掛けられたみたいに黒いのは、周りがもっと濃厚な夜に囲まれているからなのか、それとも生来のものなのかは分からない。
夜以外にその黒を見たことはないから、判別は不可能。不必要。
そしてその黒い髪が散らばる先は、真っ白なワンピース。
何の飾りもないそれは、ただ白さだけを白々しく誇っているけれど、誇りきれずに薄っぺらい印象だけを残す。
風にひらひらと裾を揺らし、黒い髪を背負って揺れる。
袖のないそこから覗く腕も、ひらひら揺れる裾から伸びる足も、白。
血管が見えそうなのに、一本も血管なんて流れてなさそうなそこは、夜のベランダで淋しげだった。
裸足で佇む姿は、部屋から追い出されて行き場のない子供のよう。
でも白いワンピース姿で夜に裸足でベランダなんて、似合いすぎる取り合わせに全てが作り物めいていて。
四角い世界を覗く僕には、作り物だとしか思えなくて。
硝子越しの世界を、眺める。
微動だにしない世界を、風だけは動く世界を、他に誰もいない世界を、ずっとずっと、眺めていた。
目を逸らすことすら、出来ないほどに。

──息は、いつの間にか殺されていた。

女の手は、いつも柵に掛かっている。
気の所為かもしれないけれど、それでも初めは伸ばした手を掛けていた。
それが次第に近づいて、気がつけば胸が柵につくほどその距離は近い。
代わりに手は柵の外に伸ばされて、黒い空気に投げ出されている。
掴む手は他に何もないのに、指を広げ、大気を抱き留めたがっているかのよう。
・・・けれど、じっと見つめる僕には多分、確信がある。
抱き留めたいモノなんて、きっとあの『彼女』にはない。
顔も見えない『彼女』。
でも分かる、分かることが出来る、知っている、知ることが出来る。
抱き留めたくなんてないんだ。
その為に、あの手が投げ出されているわけじゃない。

もっと、違う理由がある、きっと、ある。

──瞬きをしないで見つめ続けるのに、見つめすぎて気がつけば焦点はぼやけていく。

毎夜のように現れる白。
期待して、でも今日は現れないかもしれないと願うように見つめ続けるのに、期待を裏切るように今日も白は呆然と広がる。
それも、焦点がぼやけた途端に広がるのだから、一体いつ広がったかは分からないまま。
一度、諦めて瞬きをして、焦点を整えて見つめればやはりそこにいつも通りの日常は広がる。
夜に靡く白。

白、
白、
白、

それは日常で、昨日もその前も、もっと前からも続いている日常で、今日も続くかもしれないと思いながら続いてしまっていて、でも、それでも・・・。

目が離せない、
息が出来ない、
耳が聞えない、

夜に見るのは、夢だけだろうか。
それならこれも、夢だろうか。
靡く白はまた同じ。
杭を打たれたように佇む姿も、また同じ。
絡む黒も同じで、全てが同じだからこそ・・・眩暈が、する。


黒と白の世界に、落としたインクのように広がる別の色。


今日こそは、黒だけが広がっているはずだった。
だからこそ、いつもと同じ行動を取ったんだ。
違う行動をすれば、認めてしまいそうだったから。
それなのに、それ、なのに。


白い女は、そこにいる。


──いつも風に靡いているから、いつか落ちそうだなと思っていた。


嘘だと、誰かに指摘された気がする。
多分、誰よりも正しい自分の中の誰かだ。
思っていたんじゃなくて、期待していた。
きっと、そう。
手摺を掴んだ手に、いつか更に力が入り、大切そうにその柵を一瞬だけ抱き締めて、それからすぐにその柵を離して、今度は夜を抱き締めるのだと。
期待して、見ていた。
いつかは起きる、きっと、起きると。
四角い窓をテレビにして、チャンネルも変えずに見続けて。
強い風が吹くたびに、あと少しと呟くのに。


──白い女は、そこにいる。


手摺に掛けられる、手も同じ。
詰める息も、また同じ。
眩暈がする。耳鳴りが、響いている。
それでも瞬きだけはしない。また、瞬きをしてしまえば・・・繰り返して、しまうかもしれないから。
恐ろしいのだ、ただ、それだけが。

そうだ、恐ろしかったのだ。

・・・ふいに、突きつけられるように気がついた。
そうだ、怖かったのだ。もう、耐え難いほどに。だから、こうしている。こうして、いた。
でも、ここは四角い世界の外。視聴者は、観ているだけ。
触れることさえなく、四角い世界から覗いている。起こりうる、演出を、演技を。

そうだ、これはいつかも観た世界。

背筋を駆け上がる震えだけが、いつかとは違うもの。
震える瞼の痛みだけが、全ての証明。足を抱える手も震え、囲っていた足が腕から零れる。
ずるずると、片方ずつ。
だって、もう抱えきれない。

抱え、きれないのに。


──呟いた声が、聞こえたわけじゃないのに。


風に流れるより、もっと軽やかに広がった黒が最初。
覆うように広がる白が、次。
細い黒を覆った白が、夜の中にあまりに鮮やか。

作られた不自然さなんて一つもない、滑らかな美しさ。

見蕩れるとは、あのことか。
塀を越え、何処までも自由に空に広がり、やがて絶対的な力に引き寄せられていく様に、どうして惹かれないのか。
美しさは、予定調和の中にあるのに。
人工的な黒の大地に、調和が広がり往く様から、どうして目をそらせられるのか。


──たとえ、訪れる調和が命を対価にしていようとも。


瞑っていた瞼の裏に、広がる赤い華を見た。
いつかの日、黒い滑らかな大地に広がっていた赤を。
再び見えたそれに、開いていたはずの目を閉ざしていたことを初めて知った。
知ったからこそ、初めて開く。
開いた目に映るのは、四角い世界。そして・・・そこに広がる、黒一色。
黒、一色。


──白は、何処に?


走り出したのは、白が失われたからなのか、赤を見つけたからなのか。
どちらが先だったのかは、もう既に、誰も知らない。
知っているのは、走り出した瞬間の引き攣るような喉の奥の呻き。
椅子から飛び降り、ドアを押し開け、廊下を駆け抜ける。
家という囲いから飛び出て、エレベーターという箱に乗り、また外へ。

走る、
走る、
走る、

家を集めたビルから飛び出て、更に先に。
辿り着いた先の、赤。


──その赤に、口も交わさぬ白の死を夢見ていた自分を知らされた。


どうして、そんなモノを夢見ていたのだろうか?
気づきたくない疑問を抱いて、また、走る。
脳裏にずっとある、赤の華。


あの華の名は──終わり、だった。


いつだって、あの四角い世界で見つめていた。
見つめているうちに、観られるのではないかと思っていた。
期待を、していた、きっと。
同じくらい、確信をしていた。

でも、見られるなんて実感を抱いてはいなかったはずなのに。

塀を乗り越える勇気を、持てる日はこない。
だから、訪れる瞬間を夢見ていた。
確信する瞬間を、待っていた。


でも、本当に訪れてしまったそれに、初めて夜の重さを知る。


・・・きっと、人生の中で一番必死に走った。
本当は、一度目に走らなくてはいけなかったのに、今、走る。
走って、走って、走って、
そこに咲くモノが、


赤でもなく、佇む白であったことに喜びを感じたこと、ただそれだけに安堵した。


──同じ安堵の笑みを、『彼女』も浮かべていた。


「ありがとう、来てくれて」

・・・そう、彼女は言った。
初めて見る、涙を流して佇む彼女を前に、同じように佇むことしか出来ない。
佇んで、見つめて、聞くしかない。
夜に溶けて、ずっとそこにあった声を。

きっと、いつか落ちるのだと思っていたの。
だってそういう、子だったから。
でも、思っていただけ。
落ちていく音に、耳を澄ますみたいに。

「・・・落ちちゃった、本当に」

ひび割れた、声が響く。
それが誰の告白で、誰の笑い声か分からなくなるのは、胸の内からも同じ声が聞こえていたから。
ずっとずっと聞えていた。あの時、あの赤を見た瞬間から。

落ちればいいと、思って観ていた。
ずっと、期待していた。
でも期待がどれだけ残酷で醜いかは、期待通りになって初めて知った。
知った時には、全てが遅かったのに。

「落ちるんじゃないかなって、そう、思ってただけだった」
僕は、落ちるんじゃないかと、そう、思って見届けただけだった。

見届けた後は拉げた赤しかなかったから、結局その姿を、あの白と黒以外知らない。
けれど、目の前で泣きながら笑む姿が、同じものであることだけは分かった。
それは、知識とは別の場所が、そう、識別していたから。

・・・でも、誰の所為だったのだろう?

見届けた、僕の所為?
思っていた、彼女の所為?

分からない。
ただ、僕も彼女も、夜の闇に埋もれる姿を救うことは叶わずに、遠くにある喧騒から遠ざかることも、近づくことも出来ないまま、立ち竦む。
纏いつく、全てを振り払うことすら出来ずに。
そしてその全て以外に・・・ここには、何もないのだ。
何も、ない。
でも、その何もない世界で、目の前で、小さく、彼女の口が開く。
覗く、小さな白。滑らかな、赤。何もない、黒。
零されるものが何かは分からなかったけれど、零れたものの一つがなんであるのかは、不思議なほどはっきりと分かった。
それはきっと──『彼女』の、名前。


知らなかったその名を、初めて知る。


伸ばした手、絡んだ指先。
感じた音、伝わるのは熱と痛み。
でも、たとえこの意味を知らなくても、名を、知らなくても・・・知っている。



「ありがとう、生きていて、くれて」



今度は、裏切られた。
あの時も、あんな期待、裏切られればよかったのに。