慌てて日誌を閉じて、それを引き出しに放り込みながら立ち上がるのと、小屋のドアがノックも声もなく開かれるのは、ほぼ同時だった。手入れなんてされたことがないドアは、それなりに開きが悪く、軋むような音が鳴るけれど、無言のまま入り込んできた男達の足音に比べればまだ可愛げのある程度の音だ。
少なくとも、無意味に偉そうじゃないし、傲慢そうでもないし、威圧感や侮蔑や嫌悪を撒き散らすような音でもない。
自分達だって、大して変わらない身分のくせに、といつも思う。いつも思っているから、今日だって思っている。・・・けど、口は開かない。三人の男達が無言のまま七三一号の牢屋の前に横並びに立って、中にいる囚人を、七三一号を見ている、その様を壁に背を押し当てるようにして立って見ている間、一言だって発さない。
偉そうな声で囚人にお決まりの問いを発している間、一言も。まるでこの小屋の中には囚人と自分達しかいないと自分で自分に言い聞かせているかのような男達には、一言も。
そういう、決まりだった。たぶん、決まりがなかったとしても無視されるのだろうし、声なんて聞きたくもないと思われていただろうけど、とりあえず今現在は、正式な決まり。ただ、他の一般人ならともかく、似たような職種を与えられているコイツ等に下だと思われるのは業腹だけど。
偉そうにして・・・、ただ囚人を連れ来て、偶に様子見て、あとは綺麗に作ってやった壇の前に連れてくるだけじゃん・・・、胸の内だけの呟き。口に出せば、ただでは済まないと分かっているけど、三回に一回は思わずにはいられない。
あの、首を切る係の奴らは流石に、色んな意味で別格だと思うけど、コイツ等に下扱いされる覚えはない。
ただ、こちらになくてもあちらにはあるらしく、決まり切った確認事項を行ったソイツ等は、やっぱり偉そうな態度で振り向くと、こちらに一度、侮蔑的な視線を投げかけてからこれまたやっぱり何も言わずに、その割には足音だけ煩く鳴らしながら小屋から出て行った。ご丁寧に、最後の奴が態とらしいほど煩く、後ろ手に小屋のドアまで閉めて。
振動として伝わる音は、嫌みったらしく鼻を鳴らす音にも似ていた。きっと、アイツ等が鼻を鳴らすと、全く同じ音がするに違いない。鼻を鳴らそうとしても鳴らない・・・はず、のこの身には、信じられない音だ。
鼻が詰まって死んでしまえばいいのに。そうすれば不名誉な一族として、二度と我がダンの一族に偉い態度を取れなくなるはず。物凄い恥ずかしい思いをして、一生下を向いて生きていけばいいのに。盛っちゃうよ、の歌すら歌えないほど、恥ずかしい・・・奴ら。
「ねぇ・・・、もう、歌わないの?」
突然、七三一号が声をかけてきたけど、すぐには返事が出来なかった。意識が、自分の中にだけ向いていたから、唐突に返させられた意識の方向に、認識がすぐに対応出来なかったのだ。二、三秒の空白。
それから方向性を確認して向けた視線の先には、ずっと楽しげで、今も楽しげで、でも・・・、何故か少しだけ真面目な顔をした七三一号がいた。何故か、そう、何故か。
「・・・気が、乗らなくなった」
「アイツ等の所為?」
「そう」
「そっかぁ・・・、ってかさ・・・、なんで、喋らないの?」
「・・・何が?」
「いや、俺とはこうして話してくれるけど・・・、さっきの奴等とは一言も喋ってなかったじゃん。挨拶とかもないし・・・、まぁ、アイツ等もしてなかったけど。・・・なんで、なのかなって思って」
少しだけ、聞き辛そうな声と口調、それにどことなく申し訳なさそうな顔をしているような気がした。たぶん、それは気の所為じゃなくて、でもこの相手がそんな顔や声が出せる事が意外だったし、人生の中でそんなものが自分に向けられるなんて、最初で最後かもしれないと思ったらなんだか妙な気分だった。
感じていたイライラがどこかに出て行ってしまったかのような、身体の一部がむずむずするような、この場所にいる事が・・・、たぶん、居たたまれないような、そんな気分。
きっと、そんな気分なんて夢みたいな気の所為だと思うけど。
「あのね、汚れた一族なんだよ、『ダン』はさ。だから喋っちゃいけないし、向こうも喋りかけてなんかほしくないの。声を聞いたら汚れるんだってさ。汚れて困る面かよって思うけど」
話しているうちに、何故か気分が高揚していくのが分かった。べつに、興奮しているってほどじゃない。ただ、くさっていた気分がすっきしりて、自分で自分の声に気分が上昇していくような、そんな今までにない不思議な効果が起き始めていたのだ。何か、おかしな薬でも打たれたみたいに。打たれたこと、ないけど。
でも、気分は上がっていく。上がれば、自然と口をつこうとするのは『ダン』一族のテーマソング。・・・まぁ、作詞作曲全て自主制作なので、一族のテーマソングになるかどうかは自分で今後一族に啓蒙しないといけないけど。まだそれはしてないけど。でも、だから、つまり、これは今のところ、人生のテーマソングくらいか。
「喋っちゃいけない、かぁ・・・、だから、近づこうとしたら止められたんだ」
「・・・何それ?」
「いや、前にこの辺歩いてた時、声かけようとしたら周りの人間に止められてさ、何でだろうと思ってたんだよね。誰も知ってて当然みたいな顔して、理由教えてくれないし」
「声って、なんで?用があったの?ってか、何している人間か知らなかったって事?」
不可解な台詞は、半ば呟きめいていたけれど、あまりに不思議な台詞だったので、捨て置くことは出来なかった。気分は高揚しかけたまま、不安定な位置をうろうろしている。落ち着きがない。いつもは、落ち着くだけの人生なのに。「何している人かってのは知ってたよ」あっさりとした返事。用があったのかどうかの返事はまだなくて、つまり何なんだって気持ちがあって、だけど答えを先走るみたいに、心臓が、
「・・・なんか、」
「なに?」
「盛りたい気分」
「・・・土?」
「他に盛るもん、あんの?」
「・・・ホント、好きなんだ、それ」
原因を追及する間もないくらい効用した気分の所為で、土が盛りたくて盛りたくて、仕方がなくなってきてしまった。盛り上がるほど、盛りたくなるというか。その気分を率直に漏らせば、少々呆気にとられた声が聞こえてきて・・・、「当ったり前じゃん、生き甲斐だもんね」聞こえてきた声を吹き飛ばすように、高らかに宣言する。
宣言?そう、宣言だ。生き甲斐もって楽しく生きて、何が悪い?
何がなんだか分からないけれど、妙に楽しくてしょうがない。気分が盛る、盛る、盛る。気分が下がっていて引っ込んでいたはずの歌が、また口をついてきそうなほどに乗っていた。曲は既に脳内に流れ始めていて、口の中には歌が流れていて。口を開けばその歌が流れ出そうなほど。
もう出しちゃおうか?そんな気持ちがぷくぷくと。ただ、ぷくっと出る前に七三一号がぷくっと口を開いた。ぷくぷくっと。
「生き甲斐、かぁ・・・、なんだ、俺、てっきり・・・、」
生き甲斐は、人形遊び、なのかと思ってた。
「あんまり楽しそうだから、絶対あれが生き甲斐っていうか、趣味なんだと思ったんだ」
「・・・は?え?・・・えっ?」
「あ、ごめん。あれ、あの人形遊び・・・、やっぱり秘密だった?」
大丈夫だよ、別に言い触らしたりしないし、ってか、ほら、もうすぐに死人に口なしじゃん!だから気にしないっ、気にしない!でもさ、アレ見て、声かけようと思ったんだよねぇ、それなのに、知らない奴等に止められちゃって、何なの?みたいな・・・、と人が口の中に沸いたものを全部潰す勢いで吃驚しているのに、一欠片も悪びれた様子なく、七三一号は明るく言い放った。
放たれた言葉が、どれだけの威力で人のど真ん中を打ち抜いているかも知らずに。
何も、知らずに。
「・・・っと、ま、待って」
「んー?」
「あれ、見て・・・、声、かけようとしたって・・・?」
「うん、そう。ってか、アレを見たから死刑囚目指して頑張っちゃったんだよねぇ、お願い、したいなーって」
物凄い明るい声。もしかしたら、今までで聞いた中で、一番明るい声。でも、その明るさでこっちの目の前は真っ暗になりかけている。明るいとか暗いとかは、所詮対比もの。だから物凄い明るい物体がここにある所為で、こっちが真っ暗になっているという仕組み。
人生の中で、こんなに暗かった時が今まであっただろうか?否、ない。自問自答。でも昨日から、人生初ってのが続きすぎている気がする。もしやこの若い身空で、もうすぐ人生の終わりでもくる予定があったりするのだろうか?
あぁ、頭がぐるぐるする。・・・否、違う違う、頭がぐるぐるしていたらそれは怪物。正確には、頭の中がぐるぐる。・・・否、正確にはというか、正確に比喩するとというか。あぁ、本当にぐるぐる。世界が回りそうだ。ってか、世界はずっと回っていたんだっけ?・・・って、違う。違うってば違う。そうじゃない。そうじゃなくて・・・、そう、じゃなくて・・・、
「あれ?どうしたの?」
かかる声に対する返事の用意はない。身体が正直に取る行動に、今はただ、従うだけ。ドアの方へ向かう身体、とにかくこの場を一旦去ろうとしている身体。こんな行動、前にも覚えがある。前にも、というか、たった一日前にもやった。
対象は檻に入って何も出来ない存在なのに、身体が勝手に・・・、この場からとりあえずの撤退を命じている状況。そして何の反論もなく、従う状況。
あぁ、なんて弱いのだろう?『ダン』を名乗っているのに、『ダン』を掲げているのに、恥ずかしい気持ちがなくはない。それでも、身体は相変わらずの撤退命令。今はとりあえず撤退し、体勢を整えろと命じている。体勢を整えて、考えを纏めて、対策を立てろと命じている。
「ねぇ、ねぇってばぁー」相変わらず、脳天気な明るい声。煩い、オマエの声に応える義務なんかこっちにはないんだっつーの。調子乗るな、バーカ、バーカ!
腹の中で盛大に吐いた罵倒は、口から出る前に暴発し、その勢いに乗るように身体を反転。すぐ傍の過去と同じようにドアに手を掛け、開いた先の世界は狭い。そう、いつだって世界は狭い。生まれた時から、ずっと、ずっと。
「昨日、言ってた・・・、お願い、しようと思ったんだよね」身体が、もう半回転しようとしたのを、何か、知らないものが留めて前進を促した。聞くべきじゃないと、言われているのかもしれない。何か、に。
頭の中で、歌が聞こえる。それは、いつもと同じ、だけどいつもと違う歌。
ドアを片手で全開にして、気合いが入った一歩を踏み出す。外はまだ、少しだけ青みを残した空。踏み出した足は狭い世界から広い世界を眺め下ろす。両足が出ると、後ろ手に殆ど自動式状態でドアを閉める。
・・・でも、その直前、確かに聞こえてきた声は「お願い、がさぁ・・・」という、物凄い中途半端に途切れた台詞。閉まる直前まで、続きはない。閉まった後も、隔てられた先から続きは気配すら聞こえない。何も、何も、何も、
だからお願いって何なんだよ!
閉まった、閉めたドアの前に立ち、特に面白味のない空を眺めながら・・・、なんだか無性に、イライラがつのって胸の内に吐き出した声は、胸の底に落ちた途端、いっそうイライラを生み出して、なんだかどうしようもなくなってしまった。
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──生き甲斐と趣味は、似て異なるものだ。
生き甲斐、というのは、ないと生きていけないくらい必要としている必然にすら似たもので、趣味は生きていけている事を前提に、その生を楽しむ為に必要としている事だった。少なくても、自分にとってはそういう区分けをしているもので、つまりは・・・、
人形遊びは、趣味だった。
勿論、生き甲斐は土を盛ることだ。盛ること、というか、より完璧な土壇を作る事と言うべきか。まぁ、でもとにかく、それらは生き甲斐だった。生きていくのに必要としている行為、なければ生きていけない行為。ただ、それとは別に趣味があるというだけの事。
ようやく成り立った生を楽しむ為の行為があるという事。それが『人形遊び』だ。
誰にも言えない、誰にも知られてはいけない、秘密の趣味。楽しい、楽しい『遊び』。
自分だけの『お人形』を手に、架空の物語を繰り広げる。登場人物は、常に二人。『人形』を操る自分と、自分が操る『人形』だけ。その二人で綴る物語は、誰にも見せられないほどありふれた、けれどおそらく・・・、誰も見たことがないような物語になっている。
誰かに見られれば、二度とやるなと禁止されるような、所有する全ての『人形』を取り上げられてしまうことが確実な遊び。別に誰かに迷惑をかけているわけでもあるまいし、放っておいてくれてもいいのにとは思うけど、もし見られたら、絶対に放っておいてなんてもらえないに違いない。その理由も気持ちも、まぁ、分からなくはないけど。
でも、唯一の趣味なのだ。生き甲斐とは違うけど、たった一つの趣味。
取り上げられるなんて絶対に赦せないし、禁止されるのも受け入れられない。絶対に、そう、絶対に。だから誰にも知られてはいけない遊び。自分の小屋でしかやらない遊び。・・・だけど、こんな自体になって振り返ってみれば、見られないようになんて用心をまともにしていないことに気がついた。
そもそも、近づく人間なんていないのだ。いるとすれば、牢に用があるアイツ等くらいで、つまりこの小屋に近づく奴は皆無で。
カーテンも引いてなかったかも、そんな今更な事を、部屋の中央に突っ立ったまま思う。部屋を視線で一周して、溜息まで漏らしながら思う。こんな不用心な状態じゃ、いつ見られてもおかしくなかった、と。結構な大きさの後悔。せめてもう少し、用心しておけばよかった、というそれ。
でもその後悔のすぐ側に、結構な大きさの不満めいたものもある。なんでこんな場所を覗いたりしたんだよ、というそれ。なんで、なんで、なんで・・・、
お願いがあるって、そんなような事、言ってたっけ?
結局、腹の中で罵倒するだけで、きちんと内容を聞いてなかった。そういや、小屋を出ようとした時にそれについて何か言おうとしていたような気もするけど、精神を安定させるので精一杯で、聞くことが出来なかった。でも、だから・・・、つまり、アレか? 交換条件的な感じで、どうにかすればどうにかなる的な精神か?
頭の中にいくつも浮かぶ疑問。そして同じだけ浮かぶ、納得のいかない思い。どうして囚人なんかと、対等・・・、否、こちらの方が不利っぽい状況に陥らなければいけないのか、という思い。
たとえその他大勢の人間から、囚人とレベルの人間だと思われていようとも、自分達一族は、自分は囚人なんかじゃない。囚人相手に卑屈にならなきゃいけない理由なんてない・・・はず!
「つけあがるなよ、死刑囚のくせに!」
本当につけあがっているかどうかなんて知らない。というか、冷静な頭の一部が指摘するのは、それはこちらの勝手な思い込み、被害妄想に等しいものだろうという突っ込みだったけど、そんなもん、無視だ、無視。
だってアイツは、お願いがあると言ったのだ。それなら向こうがどういう意図で言ったにしろ、こちらの弱みを握った脅しだと捉えたっていいはず。
そんな事、絶対に許したりしない!
後ろ暗さ満載の囚人相手に、弱腰な態度を取るなんて屈辱だっつーの!・・・と、握り拳で鼓舞したのは勿論、我が身だ。作ったのは初めてかもしれない両手の握り拳で胸元を飾った後、真っ直ぐ向かったのは自室から繋がった、鍵付きの保管室。
外からも入れるそこには、勿論その外側のドアにも鍵がついていて、そっち側の鍵を持っているのはアイツ等だ。よほど『ダン』に近づくのが嫌なのか、話しかけるのも嫌なのか、いつの頃から外側にもつけられたドアを開けて勝手に入っては、資料を収めていく。
『ダン』に一言、宜しくなり何なり言って預ければいいだけなのに、それを忌避して自分達で。こっちはこっちで、勝手に部屋続きのドアから入って中を偶に整理する。・・・から、絶対にある、はず。
鍵を開け、ドアを開けて中に入ると、そこには紙特有の香りと、その内容から想起される陰惨な暗さが窓すらない部屋の中の闇をいっそう暗くしていた。すぐ側の壁にあるスイッチを押してつけた電灯で部屋自体は明るくなったが、しかし漂う形なき暗さは振り払えない。払った所為でいっそう何処かに追いやられた暗さが深まっている気すらする。
でも、そんな事は気にならない。深まる闇があるとすれば、それは生まれた時からずっと傍に在り続けている、馴染み深いものなのだから。だからそんなどうでも良いことなんて気にせず、どんどん中に入っていって、自室から見れば一番奥、外側に繋がるドアからすれば一番傍の棚まで近づく。最近の記録はそこにある空き棚に納められるから。
空き棚が埋まれば代々の『ダン』が整理して、また開ける。いつだって空いているのは外側ドアに一番近い棚。アイツ等が納めて、すぐに出て行ける場所。
だから、すぐに見つかった。薄っぺらい紙の束。一応糸で綴ってあるけど、応急措置みたいにおなざり。そりゃ、そうだ。これを綺麗に一冊の冊子として綴り直すのも、『ダン』の仕事の一部で、それを知ってるアイツ等が丁寧な仕事をする事なんてきっと一生ない。
日によって、気分によって腹立たしいアイツ等の仕事っぷりが、今日は有り難い。簡単に、最新の書類が見つかるのだから。
ぞんざいに立てかけられた、紙の束。一番新しいはずなのに、他の全てと同じように古くさく、汚らしく感じる束。大した量でもないそれを躊躇なく掴み、引き出して・・・、その場で、立ったまま、捲る、紙。
綴られているのは、今は『七三一号』という番号でしか認識されない存在の、それまでの人生と、その人生の──『名前』が記してあった。