「せっかく完璧に作った壇をさ、崩さないでほしいんだよね」
もうさ、完璧なわけ、歴代の『ダン』が作った物なんて目じゃないくらい、すっごい綺麗な長方形を作るわけ。でもそれなのに、死刑になる奴って、必ず首斬られる前に暴れてさ、その完璧な壇を崩すわけ、何してくれちゃってんの?ってくらい、崩すわけ。
しかも、完膚無きまでに崩されるならさ、まだ可愛げがあるわけ。だって、完全にただの土に戻るってわけでしょ?大地に戻る的な。それならまだいいんだけど・・・、実際のところ、そこまでは崩さないんだよね。崩す前に係の奴に抑えつけられて、ちょっきん、だもん。いっつも、そう。いっつも、中途半端に崩されて、中途半端に残って・・・、それがさ、どうしても耐えられないっていうか・・・、
「人の完璧な仕事、崩さないでほしいんだよね、つまりは」
「ふーん・・・、なんか、本当に職人みたいだよね」
「みたい、じゃなくて職人なんだよ。しかも先祖代々の」
「そっかぁ・・・」
長々と、今まで誰にも訴えることが出来なかった不満をぶちまき、漏らされた感想に突っ込みを入れれば、七三一号は、深く、深く頷いた。まるで、何か凄い偉大な話でも聞いたかのように。
ともすればこちらを馬鹿にしているようにも見えるくらいオーバーな仕草は、たとえそうだとしても、少なくとも『まとも』な人間の仕草に見えた。まともな、ごく普通の人間の仕草に。眉間に皺を寄せて、今までの会話を振り返って何か感想めいたことを呟いている仕草も、酷く普通だ。
普通で・・・、異常、だ。
こんな、場所なのに普通。檻の中にいるのに、普通。それは間違いなく、異常で異様な事。首を数度上下に動かし、理解を示す姿は、この場所では有り得ないはずのもの。有り得ないはず・・・、のものが、どうして今、目の前にあるのだろう?
「ねぇ、壇が崩れるの、そんなに嫌?」
「嫌。物凄く嫌」
疑問の海に溺れるように、足らない息を求めるように、返事は短く吐き出された。窒息間際の金魚のように、ぱくぱくと。嫌、凄く、物凄く嫌、と。
ずっとずっと、訴えたかった事。訴えられなかった事。訴えたとしても、届かない事。知っていて、受け入れられなかった事。理解していて、理解したがってなかった事。だって、果たした仕事ぐらい、満足のいく形で在り続けたって良いはずだって、そう思わずにはいられなかったから。
まだ、大して長くない人生。二十年も生きていない。それでも、その十数年の間ずっと抱いていた思いを、短い単語、しかも吐き出す息と同じ単語で伝えきれるとは思えない。詰め込む事も解すことも出来ないくらいの思いは、冷たい石畳の上を軽快に滑り、やっぱり同じ石畳の壁の何処かにぶつかって、粉々に崩されてしまうのだと・・・、そう、確信していた。
「じゃあ、崩さないであげようか?」
俺の首斬る時は、崩れないようにじっとしていてあげるよ? ・・・という形を、微かな笑いを含んだ声が作り上げた時、その作られたモノが石畳に反響して、今の今までのこの場においての主従関係を反転するように響いた時、破壊的なほど何か、色々なものが一瞬自分から剥がれ落ちるのが分かった。
あまりに強い驚きは、それぐらいの衝撃を伴うらしい。自分の中にある常識も、経験も、感じていたはずの異常すら吹き飛ばして、ただ、反響する形だけに埋め尽くされる。窒息、したいほどに。
「・・・な、に・・・、言ってんの?」
「いや、だって崩されるの、嫌なんでしょ?」」
「そう、だけど・・・」
「だったら、崩さないようにしてあげるって事」
窒息しそうなほどなのに窒息できない世界の中で、ようやく出せた声は酷く掠れて、笑えるほどに無様だった。でもその声がおかしかったわけでもないだろうけど、七三一号は、相変わらず楽しげな声を発し続けている。発して、意味が分からない事を言っている。
にこにこと、実際に存在するわけもない音が聞こえてきそうなほどの笑顔を維持しているその顔は、たぶん、爽やかと言われる感じを漂わせていて、今にも草原の風でも吹いてきそうな雰囲気だけど、ここは勿論、密閉された棺桶みたいな場所で。
湿っぽい風すら吹かない空間に、死刑囚と土壇場職人。土壇場職人の希望を叶えると言い出した死刑囚。何の冗談を引用したら、こんな事になる?
コイツ、やっぱ、頭おかしいんじゃないだろうか、という疑問は、吐き出される前に消えてしまった。何故なら、もう少し前に、全ては剥がれ落ちていたのだから。今更剥がれ落ちた疑問が完全に戻るわけもなかったのだ。だから、つまり・・・、綺麗さっぱり色々剥がれ落ちているこの身に宿るのは、いまだこの場所を支配していた言葉だけで。
「本当・・・?」
一言、独り言のように呟いていた。まるで、いつもの独り言。でも、この場所は今、独りではなくて。いつも独りではないけど、いつもは独りなのに、今は、独りではなくて。
聞こえてくる、微かな笑い声。それは本当は声として聞こえていたわけではなくて、吐息として聞こえていただけなのかもしれないけど。
「本当だよ、勿論。じっとしてればいいんでしょ?そのぐらい、簡単だもん」
明るい、声だった。薄暗いこの場所に全く相応しくない声だった。その所為か、世界は何処か、夢見がちになる。現実が、剥がれ落ちていく。夢の世界。ずっと、ずっと夢見ていたこと。願って、いたこと。受け入れがたい現実からの離脱。完璧な、完全な仕事の実現。大切な、土の壇。
「でもさ、その代わり・・・」夢の中を、游ぐ声。
──その代わり、俺のお願い、聞いてくれる?
「一つで、いいからさ」
「・・・お願い? え? でも・・・、言っとくけど、出せないよ?」
「出せないって・・・、ここからって事? 別に、出ないよ」
そもそも出たら崩すも崩さないもないじゃん、と笑う七三一号の笑みには、曇りがない。真っ青な空みたいに、冗談みたいな突き抜けるような青さだ。「・・・じゃあ、なに?」その青さに気圧されて、返す問い。笑みなんて、浮かべられるわけがない。夢にまで見た、夢が広がる直前だというのに。
「そんなに凄い事じゃないよー・・・、まぁ、でも・・・、」
まだ、秘密。
「大丈夫、結構簡単なことだからさ!」
軽く言い放つ七三一号が向けてきた眼差しは、希望に満ちているように見えた。光源を持たないこの場所において、何か、とてつもない光を反射したかのように。
それがあまりに鮮やかではっきりと光り輝くものだから、つい、実は何かの光を反射しているのではないか、なんて思って辺りを見渡してしまって・・・、結局、その場では告げられた言葉の意味も、その光の理由も、問い質すことが出来なかった。
**********
「ってかさ、アンタ、何したの?恩赦とか受けられる見込み、あるの?」
「ないよ。何で?」
剥がれ落ちた現実が戻ってきたのは、とりあえず小屋から出て、夕飯を食べて、余分に作った夕飯を七三一号に差し入れて、また戻って風呂に入って・・・眠って、当面は繰り返しくる予定の朝がきてからだった。
起きて身支度を調えてから朝食を作って、昨日と同じように、その前までと同じように余分に作った料理を小屋に持って行けば、もう起きていた七三一号がやたら嬉しそうに、楽しそうに「おはよう!」なんて、久しく聞いていなかった朝の挨拶というヤツをしてきた。勿論、返事はしない。しない、というか仕方を忘れていて、だから・・・、出来なかった。
代わりに無言で持ってきた朝食を差し入れれば、当然のように「ありがとう」という、これまた久しく聞いていなかった謝礼の言葉とともに受け取り、見ているこちらの視線も気にせず食べ出した。大して凄い料理でもないのに、美味しそうに顔を綻ばせて。
ようやく戻ってきた現実が、その光景に少しだけまた剥がれそうになったのは、そうして差し入れた料理を当たり前のように食べる人間も久しく見ていなかったからだった。犬のように食い散らかすか、気違いのように撒き散らす奴ばかりだったのに。
けれどともすれば再び剥がれそうだった現実は、早々終わった食事とともに落ち着いた。「ごちそうさま」という一言とともに戻された食器を受け取って、何故か詰めていたらしい息を吐き出した途端、いつの間にかその息と絡んでいたらしい問いが零れ落ちていた。
あっさりと、否定が返ってきたけど。ついでに、問いまで返されたけど。
「だってさ・・・、死刑になるのが確実の奴は、普通、こんなにちゃんと飯食ったりしないよ。あと、そんな明るくもないし」
何かが、悔しいような気がしていた。あんなに絡んでいたこっちの問いをあっさり打ち返されたのも、そこに疑問を乗せられたのも。漫然と過ごしている毎日を荒らされているのも、優位に立っている気がするその態度も。
なんだか、釈然としないものを感じていたのかもしれない。だから睨みつけるようにして、突き刺すようにしてその言葉を投げつけたのだと思う。・・・のに、鋼鉄の先で楽しげなその様子を全く変えない七三一号は、これまたあっさり答えるのだ。
「そう?でも、俺、死刑になる為に景気良く暴れたんだよ。だから予定通りになれて、かなりハッピーな感じなんだよね」
「・・・意味分かんないんだけど。ってか、つまり何したんだよ?」
「親戚一同皆殺しにした」
「親戚一同って・・・」
「だって、ほら、赤の他人殺したら悪いと思って」
親戚だって殺したら悪いだろ・・・、と思った自分は物凄い常識人だ・・・、と思わず、絶賛した。普段、他の『普通の人』からは常識の外の人間だと思われているだけに、なんだか妙に新鮮な気分だったりもする。
同時に、心持ち檻から身を離す。視線には警戒が滲む。だってやっぱり、コイツは普通じゃない。親切そうな善良そうな、良識がありそうな口調と表情で、それら一切を放棄した言葉を撒き散らす。
この、自分を普通だと思っている人間達に混ざって暮らす事が出来なかった『ダン』である自分ですら、異常だと思える奴。
いくら他人との交流に憧れがある自分ですら、檻を間に挟まなかったら口を利きたくないと思えるようなタイプだな・・・、なんて、まるで他に話し相手がいる、普通の人間みたいな事を思った。それが、とても、とても・・・、楽し、かった。
楽しいと、思ってしまった。
何が楽しいのか、檻の中で七三一号はまだ楽しげにしている。楽しげに、こちらを見つめている。目が合えば、にっこりと笑いかけてくる。檻越しに嗤う奴は他にもいたけど、笑う人間は初めてで、それが何故か余計、おかしい。戸惑いが剥がれ落ちたまま、戻ってこない所為かもしれない。
七三一号は、まだ笑っている。
その顔は、表情は気が触れている様子もなく、ようやくまともに認識出来るその容姿は、意外なほど整っている。少し、勿体ない。この顔も、あと少しで首から離れてしまうのだ。離れたら、その瞬間に容姿の良さが無意味になるほど歪んでしまう。苦痛に満ちた表情で、地面に転がってしまうのだ。
地面に転がるのはともかく、これだけ良い容姿が残念な状態になるのは、勿体ない。そんな勿体ないことを、どうしてしようと思ってしまったのか?
あぁ、でも、壇を崩さないって約束するくらいだから、最後もこの顔のままなのかもしれない。
ふと、思いつく。あんな事を申し出るくらい肝が据わっているなら、最後の瞬間まで、斧が首の中を通過する瞬間ですら、笑顔とまでいかずとも、見るに堪えないくらい、この容姿の価値がなくなるくらい、酷い表情はしないかもしれない、と。
もしそうなら良いのに、と本気で思う。『首』は関係ないけど、切り落とされた『頭部』は無関係でしかないけど、それでも綺麗なままならそれに超したことはない。大体、関係はないけど、片付けるなら汚いものより綺麗なものの方がいいに決まっている。
仕事は楽しくやるべきだ。所詮、仕事しかないんだし、『ダン』には。
「・・・あ」
「なに?」
「何でもない。ってか、放っとけ」
仕事、という単語の連想で思い出した、今、するべき仕事。公式な仕事じゃないけど、日課として好きでやっている仕事をやることをすっかり忘れていた。思わず漏らした声に反応した七三一号の問いかけを切り捨てて、傍に設置してある明らかに年代物の机に向かう。
黒ずんでしまった木の机は、肘をつく度に声を上げるし、揃いの椅子も座る瞬間と体勢を変えた瞬間、立ち上がる瞬間に悲鳴を上げるけど、とりあえず壊れる予定はまだない。
その机の引き出しを開ければ、既にかなり分厚くなった冊子が入っている。紐で綴じたそれは、足りなくなる度に紙を足している・・・日誌、のようなものだった。業務日誌。もしくは、業務日記。何処かに提出する予定もないし、誰も見ないから、やっぱり日誌じゃなくて日記かもしれない。
大体、一族皆がつけ続けている日記。確かに仕事をしたという、確かに生きたという証・・・というわけでもなくて、ただ単なる趣味みたいなもの。毎日、訪れる死や迫る死に狂乱する囚人、それらに嫌々関わっている人々の様子を記すもの。目に映るそれらの光景の中で・・・、面白いものを、記念として綴るもの。
こんな珍しいこと綴っておかないと、何の為につけているか分からないし。
独り何度か頷きながら、机の上に転がしたままだったペンを取る。開いたページは、まだ白紙。一番上に日付を書いて、行を変えてから最初に綴るのは起きたままの事実。新しい囚人が昨日来たこと、その囚人の番号、犯したと思われる罪状、身体的特徴等。それらを数行で書き上げてから、次いで、また改行。そこからは主観的感想を熟々と・・・、
「・・・あー、もーるよ、盛るよ、盛るよ、盛っちゃうよ、盛るなって言っても、盛っちゃうよん。盛るよ、盛るよ、盛っちゃうよー」
「ねぇ・・・」
「あ?」
「それ、なに?」
「なにって・・・、盛っちゃう歌」
「へぇー・・・、ってか、何を?」
「土に決まってるじゃん」
「あぁ・・・、そういう事?」
面白感想を書いているうちに、筆が乗っていたらしい。筆が乗ると自然と口ずさんでしまういつもの歌を気持ちよく垂れ流していると、今まで聞いた事がない呆気に取られた声が掛けられた。
せっかく気持ちよく歌っていたのに水を差された形になって、勿論、楽しくはなかったけど、大好きな歌の事を聞かれた、という状況も嬉しい気がしたので、素直に答えてみた。・・・のに、視線を向けた先の七三一号は間の抜けた顔をしてもう一つ問いを重ねてくる。答えが分かりきっている、問いを。
他に何を盛るってんだよ・・・、という一言を一応飲み込んでの当然の答えを聞いた七三一号は、何故か大きく息を吐きながら深く、深く二度、頷いた。何かに、納得しているみたいに。
初めから分かっている事、それなのに今更何に納得するのかと思って、今度はこちらから問いを発しようとしたところで、ちょうどお互いの声が切れた隙間から、音が聞こえてきた。小屋の外、微かに聞こえる、外来者の足音と気配。いつもと違う時間が流れていた所為で、すっかり忘れていた。もう・・・、来る、時間だったのだ。