──ミステリアス黒河、だよね。
阿倍の呟きに、確かに、と深く頷いたのは、間違いではなかったと思う。だって、確かに、なのだ。確かに、どう考えても、どんな考察をしても・・・、我らが黒河は、『ミステリアス黒河』だった。もう結構な付き合いになるはずのに、今もって色んな意味でミステリアスだった。
「・・・ってか、ミステリアスじゃないところが思いつかない」
阿倍の呟きに首を上下に動かしながら改めて抱いた感想に、気がつけば口からはとても素直な、且つ、今更な言葉が零れていた。耳に入って初めて発していた事に気づく類の言葉。思わず、なるほど、とまた頷いてしまう今の俺は、たぶん、とても素直なのだろう。
そしてそれは、向かいに座って俺の呟きに屈託なく笑っている、阿倍にしても同じで。
スカートのくせに相変わらず俺の部屋での座り方を改める気がないらしい阿倍は、胡坐をかいて際どい感じを維持しているが、表情だけは黒河より少しだけ長い付き合いの間も変わることがなく、それだけを何かの拠り所のように感じる今日この頃。
やっぱりその拠り所をそのままに笑い続けていた阿倍は、やがて何かのきっかけを掴んだように急に笑い止むと、少しだけ目を大きく見開いて笑いを含んだ声を零す。
「なんて言うかさ、私生活が想像つかないんだよね。芸能人だって少しくらい分かるもんなのに、そういう人達よりもっと分からないって言うか」
「あー・・・、確かに。でもさぁ・・・、結構一緒にいるのに、それでも想像つかないってどういう事なんだろって思うけど」
「言えてる!」
ってか、俺らが知っている以外の私生活がありそうだよね! リアルに二重生活でもしてそう!・・・と、続けざまにそう言い放った阿倍は、言葉の余韻が消え去る前に、先ほど以上の大笑いをし始める。今ですら際どいスカートの裾を、限界に挑戦するかのように捲れ上がるほど膝をばたつかせ、上半身を仰け反らして腹の底から声を出しての大笑い。これぞまさに馬鹿笑い、と評すに相応しいほどの笑い声と、時々、おえぇっ、という喉の奥で何かが身じろぎしたかのような不気味な音を発している様に・・・、流石に少し引いた。どんだけ笑いの壺に入るんだ、黒河の私生活。
アラビアンナイトばりに壷に入っているらしい阿倍は、笑い続けて時折嘔吐いて、一向に戻ってくる気配がない。これは暫くかかるなぁと文字通り他人事としてその様子を眺めながら、思い出すのは出会ってから今に到るまでの日々。俺と阿倍、それから黒河の三人の日々。
思えば、初めから三人じゃなくて、最初は俺と阿倍の二人だった。その頃は黒河とはまだきちんと一本道を挟んだみたいな距離があって、でもその道を渡ったら三人になるのはすぐで。道を渡ったのが黒河なのか、俺達だったのかは分からないけど。道の名前も、はっきりしないけど。
ただ、あの道が俺達の間からなくなった日のことだけは、覚えている。走馬灯の最初に出てくるくらい、はっきりと。
たぶん、過剰なほど美化されているだろうけど。
それでもいいと思っているかつてを思い出していると、ようやく少し収まり始めているのか、途切れ途切れではあるが、阿倍の辛うじて形になっている声が聞こえてきた。
「でも、マジな話、一体どういう生活、してると、思う?」
「どういうって・・・、俺らが知っている以外の黒河の私生活って事?」
「そうそう。たとえばさ、家で一人でいる時とかって、何してると思う?」
完全なその場限りの思いつき。でも、阿倍のその言葉に乗っかって、何度も入った事がある黒河の自室を思い浮かべて、その中に黒河一人だけを配置してみる。まさに『黒河』という感じの、そっけないほどシンプルな部屋。でもところどころ、一体これはどういう趣味なんだ、と突っ込みたくなるような物がランダムにあって、あとは本だけは本棚の形を変形させるぐらい入っている、部屋。
そこに、一人でいる黒河。
「・・・拙い、なんか、おかしな空気だけは具体的に想像がつくのに、黒河自体はぼやぼやって感じになってる」
「ぎゃははは!」
描いてしまったものを何も考えずに素直に口にすれば、物凄い勢いで品性に欠けた笑い声が聞こえてきた。そりゃあもう、吃驚するぐらいの声が。勿論、声の主は阿倍で、またもや身体を仰け反らせ、危うい感じになっている。主に、スカートが。
昔から女子っぽくないヤツだったけど、年々酷くなっている気がするのは何でだろ?・・・と、そんな薄っすらと儚い気分になるような問いを自分で自分に投げかけつつ、涙を流して笑っている阿倍を他所に、もう少しだけ想像してみる。我らが黒河実の、私生活。俺たちの知らない世界。
・・・想像力の限界だった。
「駄目だ。何も具体的な絵が浮かばない。想像力の限界に挑戦みたいになってる。ミステリーを超えて、ホラーの域に入り始めた」
「もっ、もう無理! 無理だってぇー! あははっ! 死ぬ! 笑い死ぬ!」
「はたして、こんな事でいいんだろうか、俺たちの友情は。青春とミステリーとホラーに満ち満ちた友情なんて、聞いたことがないっていうか・・・」
「圭! ・・・もう、無理だってぇ!」
自分でもどうかと思いつつ、ついつい調子に乗ってしまうのは仲間内ならではかもしれない。物語口調で続けた台詞に、阿倍がますます笑い出して、引き攣り笑いまでしながら暴れる。その膝辺りから一応視線を逸らしつつ、さて、もう一言ぐらい・・・、なんて、更に調子に乗って口を開いたけれど、結局用意していた決めの台詞は口に出来なかった。
何故ならそれより先に、先制攻撃みたいな溜息が聞こえてきたから。おまけにその溜息に怯んだ隙に、出来た隙を狙っていたかのような声が聞こえてきたから。
「・・・っていうか、俺としては本人の目の前でそういう会話を繰り広げる奴らとの友情ってのが、どうかと思うんだけど?」
どうかと思う、というわりには、いつも淡々とした声が響いた。
あまりに淡々としているので、やっぱりコイツは人類じゃないのかもしれない、なんて、客観的に考えて絶対に有り得ない事をつい思ってしまう。勿論、一瞬だけだったけど。でもその一瞬だけで阿倍には充分だったらしく、狙われた隙、奪われたタイミングを取り戻すかのように、笑い崩れていた体勢を立て直し、ついでに身体の向きも軌道修正して黒河に向けてから、まだ楽しげな形のままの口を開いた。
目の形も、完全な三日月形のままで。
「どうかと思うって、それってさ、俺らの友情、疑っているってことぉ?」
もう、完全にからかっている声だった。どんな返答であっても、絶対にからかってやるという決意に溢れる声だった。力の限り楽しんでやるという気合に満ちた声だった。・・・そんな力が満ちた声はどうかと思うが、半ば弾んだその声に、しかし地球外生命体の疑惑が掛かっている黒河が動じるわけもなく。
声を掛けてきて尚、手元の本へと視線を落としたままだった黒河は、何の予備動作もなくいきなりその顔を上げると、吃驚するぐらい、いつも通りの真面目な表情で俺達二人を見据えて、今の今まで読んでいた本に載っていた台詞を読み上げているのではないかと疑うほど、淡々とした声で言い放つ。
「友情は疑ってない。ただ、その友情の品性を疑ってるだけ」
黒河の声は淡々としている上に音量が一定で、まるで一切の波がない海面みたいだった。その海面に波が生まれたことなんて、年単位の付き合いの中でも数回しかない。つまり、今もいつも通り、波がなく。
・・・どうしてそんな波がない声で、相手を真っ直ぐ見てそんな事が言えるのか、冗談抜きで謎だった。疑った事のない友情って、なんだよ? という突っ込みは胸の中だけ。本当は俺だって、たぶん、阿倍だって黒河のことを疑った事はないけど、それを口に出すのはよほどの事がない限り有り得ないのに。
なんで照れもせず、言うかな? ああいうこと。
自問自答はかなり深い。おまけに、すぐ向かいに全く同じ自問自答をしている奴が一人。こちらは、半ば自動自得。目を瞑って眉間に深いしわを刻んで、修行僧のような顔をして黙り込んでいるが、おそらく今、深く、深く後悔している最中なのだろう。どうしてあんな問いを発してしまったのかと。
どんな答えが返ってくるかなんて、それによってどういう心境に追い詰められるかなんて、少し考えれば分かる事だったのに、と。
深く、深く、重く、深く反省中。・・・だけど、きっと繰り返す。阿倍だけじゃなくて、今、この場に居合わせている俺も、いつかは似たようなことを繰り返して、その度に反省してはまた、繰り返す。
だって、本当は反省してない。
何度でも、繰り返しこの瞬間が訪れるのを待っている。
疑ってない。黒河を、疑う事はない。そんな時期は、もう過ぎ去った。
そうじゃなくて、ただ・・・、
何度でも、許される喜びを味わいたいだけなのだ。
単なる甘え。でも、ずっとそれを許してくれている黒河に、とても、とても感謝している。言葉では軽くて、伝えきれないほど、強く。
阿倍は、しかめっ面で黒河に抗議している。どうしてそういう恥ずかしい台詞を平気で喋るんだ、云々、騒いでいる。それも、間違いなくただの甘え。
黒河は気づいているのだろうか? 甘えでしかないって事に。
気づいて、許してくれているのだろうか?
そっと伺い見ると、肩を竦めて阿倍の相手をしている黒河が見える。いつもと全然変わらない様子の黒河は、一切照れた様子が見えずに阿倍の抗議を受け流し、その度に阿倍がいっそう興奮している。たぶん、受け流されるぐらい受け入れられている事が恥ずかしいのだろう。厚顔な態度を装っているだけで、本当はかなり照れ屋だから。
きっと、あと数分以内に怒りだか照れだかの矛先が俺に向く。いくら向けても受け流されるだけの黒河から、とりあえずは反応する俺に流されたものを押しつける為に。
「黙ってないで、圭も何か言ってよ!」
「あー・・・、うん」
「うんって何?!」
・・・と予測していたら、数分どころか数秒で矛先が向いた。変えるにしたって、早すぎだろう。なんで阿倍の矛先は簡単にくるくる変わるのか、結構な付き合いなのにいまだに謎だ。しかも最終的に必ず俺の方向へ向くのだから、それもどうかと思う。まぁ、黒河相手と同じで、ある種の甘えなんだと分かっているから、とりあえず飲み込んで甘んじて大らかに受け入れているけど。
ギリギリ受け入れられるくらいの怒りに似せた何かを爆発させている阿倍に引っ張られたように、黒河の視線が阿倍一人から俺を含めた二人へと向くのを感じたのは、そろそろ阿倍の手か足が出そうな気配が漂った頃だった。避けるか、受けるか、それが問題だ、なんて自分の中だけでふざけていると、ふいに何か、とても身近で柔らかな気配を感じて・・・、目を向ければ、黒河がじっと俺達を見ていたのだ。
向けた視線が合った途端、微かに視線が綻んだ気がした。
時々、思う。こんな時・・・、『こんな感じ』を受けると、思う。まだ大丈夫、と思う。『まだ』の主語が何かとか、意味とかは一切考えないで・・・、ただ、安心する。大丈夫なんだと、まだ大丈夫なんだと。考えないのが態とだとか、何かをとても恐れているとか、そういう事、全てに目を瞑っているのは知っているけれど。
今は『まだ』、大丈夫だから。
阿倍は散々俺に当たって気が済んだのか、再び黒河に絡みだしている。それを黒河は、ごく普通の事として受け流す。受け流しながら、その流したものをさり気なく、俺に向けたりもして、俺はそれを受けきれずに、阿倍の攻撃をまた一人で受けることになったりして。
当たり前の、日常。これは、そのごく一部。それが当たり前であることを、一体何に感謝すればずっと当たり前でいられるのだろうかと、偶に考える。ずっと当たり前であってほしいと思うから。ずっとずっと当たり前でいられたら、いつかは謎に満ちた黒河の事も分かったりして、それすらも日常になるかもしれないから。
その時は分かった謎の生活を、笑いの種に出来ればいい。
──そんな風に、その時はたぶん、約束されているんだろうと高を括った未来を描いていた。