膝を抱え、抱え込んだその膝に顔を埋めている。肩より少し下くらいの長さの真っ黒で艶やかな髪が広がり、その横顔さえも隠して。袖のない、真っ白な無地のワンピースらしき服を纏い、そこから覗く手も足も、白くて細くて頼りなくて、強く触れたら折れてしまいそうなくらい弱々しい。それは、まるで・・・あの木の、ように。
「あの子よ」囁くような声。気がつけば、足は止まっている。小さな女の子に辿り着く、僅か手前で。振り返る彼女が向ける眼差しは、力に溢れている。そしてその眼差しは、言葉より雄弁に再び願う。好きになって、と。愛でてあげて、と。でも・・・なんで、俺?
小さな疑問が口から零れていたのか、それとも眼差しから零れていたのか、さもなければ何もなくとも気づけるだけの力が彼女にはあったのか、判別はつかない。ただ、彼女は気づいていた。気づいて、告げた。
──貴方だけが、意味を持つのよ、と。
じっと、見つめられる。全てが怖いほどに透徹していて、防ぐ術なんてどこにもない。貫くように、浚うように、足元から何かが崩れていく。頭上から、何かに埋められていくのかもしれないけど。眩暈がした。地面が揺れる。俺が揺れているのか、世界が揺れているのか。
「私のこと、嫌い?」
確信に満ちた声だった。否、という返事を、端から認めてない声。認める必要性を持たない声。声と共に向けられる、華やかな笑み。向けられ、見つめた途端、何もかもが指先から零れ落ちる。齎された笑み以外、何も分からない。
「ねぇ、嫌い?」
そんなわけがないと、もう知っているのに、分かっているのに、戯れのようにもう一度だけ、同じ問いが放たれる。戯れのように? 違う、正真正銘の戯れだ。彼女は、この上なく華やかに戯れる。俺は、だから戯れられなくてはいけない。それが、俺の存在意義だとすら思う。思う、から。
「・・・そんなわけ、ないよ」
「そう? それなら・・・お願い、ね?」
狡い、そう思ったけど、もう無理。だから溜息を一つだけ零して、その溜息に全ての不満を込める。込めて吐き出したなら、もう俺には何もない。だからゆっくりと足を踏み出す。彼女が脇に避けるのを、あまりにも自然な仕種のように感じた。
二歩目、三歩目、見下ろすのは性に合わない。でも諦めて見下ろすと、その途端に上がる、小さな額。額の下から覗く、瞳。白目が少ない、真っ黒な瞳は無言のまま恐ろしいほど多弁に語る。問いかける。その眼差しだけで、全てを。不純物なんて一欠けらも入っていないその眼差しを美しいと思うけれど、見下ろす姿はあくまで幼く、他の表現を持ち得ない。
小さい子、改めてそう思った途端、後ろにいる彼女と比べてしまう自分に気づく。和服美人、その華やかさと比較するのが可哀相な姿に、哀れみとも戸惑いともつかないモノが滲むけれど・・・じっと見つめてくる幼い瞳がまるでそれを察したかのように僅かに揺れたから、必死でその思いを振り払った。
何も分からないけれど、それでも分かることはある。多分、この子と彼女を比べることは、彼女が頼んできた事と正反対の事をしてしまうという意味だし、この子にとってとても酷いことだ、きっと。
揺れる瞳は、ともすれば泣き出す一歩手前のようにも見える。小さな子にそんな顔をさせる罪悪感が浮かぶのを感じると、もう本能的な行動でその場に、その子のすぐ目の前に膝をついた。視線を合わせ、殊更優しげな表情と声を作って「こんにちは」と友好的な雰囲気を作ってみるけれど、返事はない。軽く噛み締められている唇が、開くことを拒んでいるのが分かるだけ。
でも、拒まれたままではいられない。お願い、されてしまって、そのお願いを俺自身が受け入れることにしてしまったらしいから。
一瞬、視線を離して塀を無意味に観察して、それからもう一度その子に戻す。拒絶の態度を変わらず取るその子に、さてどうしたものかと思案して・・・ふと気づくのは、その子、としか表現出来ない状態であるということ。名前も知らないし、俺自身、名乗っていない。名前も知らない者同士ではいっそう警戒されるだけだし、下手をしたら不審者だ。彼女が連れてきたのは見ていただろうから、流石にそこまでは思われていないだろうけど、それでも名前の交換くらいは自主的にするべきか。
そう思ったからこそ、口を開く。作った優しさに、小さな子に対して自然と滲む優しさを混ぜ合わせた声で。
「あのね、俺はメグム、木の芽、花の芽の芽って書いて、メグムって言うんだけど・・・」名前の紹介は、彼女に対して口にしたものと同じ。同じ、好意的な反応を期待して。「ねぇ、キミはなんていうお名前?」出来るかぎり優しい、小さな、小さな生き物に対しての声・・・を発した途端、睨まれた。しかも、前後から。
「いってぇっ」背後から、軽い衝撃。痛いと口にしながらも、驚きの方が大きかった。優しい声で聞いたのに、どうして、と。振り向けば、睨みつけてくる彼女の眼差し。初めて見る、顔。そしてその顔のまま「失礼よ」と抗議。失礼? 何故? そう思うのに聞けない。聞いたら、多分また攻撃を受ける。だから曖昧に笑って誤魔化して。
一瞬の、沈黙。数秒の、空白。沈黙で空白が埋まりきって、零れ落ちる寸前、まるで決められていた流れのように聞こえてきた。
───、と。
「・・・え?」零された間の抜けた声が自分の声だと、暫くは気づかなかった。でも、地面に落ちて跳ね返って、受け止めさせられて、ようやく気づいた。気づいて、同じタイミングで気づく。聞こえてきたモノが、座り込む少女の名だと。それが上手く聞き取れなかったのだと。聞き取れなかったのに・・・聞いたことがあるのだと。
視線は、流れの続きで空へと向く。少女の真上。いつかは見上げた、場所。今は、何もない。空だけが、細く、狭く切り取られて。代わりに、少女。座り込む少女が、一人、否、独り。独り、浮かんだ言葉に突き動かされて再び振り向けば、ついさっきまで不服混じりの怒りを浮かべていた彼女は、また笑みを取り戻していた。彼女は──サクラは、否、『桜』は。視線を戻す、少女。そこに佇んでいた、細くて、高くもなくて、頼りないほど白い地肌を持つ木。
ふいに、圧倒的な力に屈服して流れる一枚の花弁のように、全てを受け入れた。
知らないのに知っている者達、笑いさざめく全て、立ち並ぶ彼女たち、人がいない世界に在る人形、佇むことを止めた木、座り込む少女、いつかは知っていたその名、その、名。
「咲かせて、あげて」
私たちは、愛でる者がいなければ、いると信じられなければ、咲くことが出来ないの。でも、咲かなくては在る意味すら失われるの。それは、あまりに哀しいの。哀しいの。哀しすぎるの。だから、愛でて。幼い姿のままでいるあの子を、座り込んだままのあの子を、どうか咲かせてあげて。貴方にしか、頼めないの。貴方に、頼みたいの。
声が、聞こえた。すぐ後ろから。その声を聞きながら、ようやく全てを知る。理屈も何も必要なく、ただ知って、受け入れた。けれど知りながら、受け入れながら、今、初めて気づく事があると教えられた。座り込む、少女に。
幼い頃、何度も訪れたのに。何度でも訪れたのに。何故か、そう、何故か。
咲く、少女の花を、その姿を、俺は、知らない。
**********
本当のことを言うと、我に返ったすぐ後に、少しだけ残念な気持ちが胸の裏側に滲んだ。それは多分、後ろに佇んでいたはずなのに、察した全ての確認の為に振り返った時にいなくなっていた彼女──『桜』の姿が瞼の裏にあったから。和服美人。だから、多分、少しより少しだけ多く、期待が外れた時に似た気持ちがあって。
名前を聞き取れなくて、思い出せなくて、今更聞けない小さな少女のことは、可愛いと思う。思う、けどそれは幼さに必ず付け加えられる可愛らしさで、あの鮮やかな美しさとは掛け離れたモノだったから。同じ美しさを期待するのが間違いだと分かっていても、それでも抱いてしまった期待。多分、少女は──『花』はそれに気づいていて、だから今も俯いている。膝を抱えて、小さく丸まったまま。
小さく、小さく、家の脇で、壁と建物の隙間で蹲る。小さい頃は来ていたけど、やがて誰も訪れなくなった場所で。小さく、小さく。
あぁ、駄目だ。駄目だと、思った。思った途端、強く、強く思わずにはいられない。
だって俺の家の敷地内で、俺の家の脇で、俺が遊んでいたはずの場所で、こんなに小さく、小さく、頼りなく、独りぼっちで蹲っているなんて。蹲って、顔も上げられないでいるなんて。『咲かせて、あげて』そう、咲くことも出来ないまま。でも・・・それは、何故? 誰にも、愛でられないから?
違う、愛でる人間ならここにいる。その為に、ここに来た。ここに、連れて来られた。
「・・・花、なんだよね? ね?」
膝を折り、小さな少女に、花に、出来る限り視線の高さを合わせて声を掛ける。こっちを見て、ここに俺がいるんだよと、そんな厚かましい思いを一杯に詰めて。だって、視野を僅かに広げて辺りを見渡せば、はっきりしない記憶が柔らかく散らばっている。きっと、ここに在った、今はほどけて形のない時間が。
その時間に立ち会ってくれたのが、この『花』なのだと、改めて知る。
知って、込み上げてくる。ほどけた全てが絡み合って、足元から突き上げるように。もしかしたら幼い日に目にしたのかもしれない、花。見られるものならば、もう一度。見られないのだとしても、せめて、立ち上がって。あの『桜』のように、一欠けらの悔いもなく、笑って。微笑って。
「とりあえず、散歩にでも行かない? ここ、日当たり悪いだろ? 今更・・・かもしれないけど。でも、こういう日当たりの悪い場所にいるからってのもあると思うんだよね。咲かないのって。だからもっと日当たりの良い場所に散歩にでも行こうよ。歩けるんだよね? ね?」
伸ばした手は、取られることを待たずに膝を抱き締めている白い、細い手の一つを掴む。握り締めたら折れてしまう予感に、少しだけ焦りながら。折れないように、振り払われないように、零れないように、気をつけて。引く、手。引かれて、上がる顔。向く、瞳。透明な、赤い瞳。
あぁ、綺麗だなと、花を見て、初めて思った。
「行こう?」ともう一度促せば、掴んだ手は抵抗を感じさせず、素直について来てくれる。抵抗どころか、むしろ何の力も感じない手に、ともすれば握っている事実すらほどけそうで、少しだけ怖かった。でも意識すれば余計怖い気がして、だから感じる怖さに気づかない振りで足を動かす。
続く塀と壁の隙間を抜けて、小さな庭を横切って、形だけの門を通り抜けて・・・広がる、誰もいない道。車の音は勿論、人の気配すら感じない。おまけに、全てがどこか曖昧で遠く。何も、ない。誰も、いない。全てが、沈黙の中で固まっているかのように思えるのに・・・。
ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、
・・・形も重さもない、音がした。そして音と共に、視界の端を柔らかく横切り、消えては落ちる、花弁の姿が。見渡しても花が舞い散るような木はない。そう、いるのは人の気配を持たない人形たち。それなのに、花弁は散り続ける。散り、舞い続ける。花の姿はないのに。人の姿しか、ないのに。
無意識に捉えきれない花弁の姿を追っていたらしい。唐突に我に返って視線をやると、手を繋いだままの花は地面を、そこに在る自身の爪先を見ていた。正真正銘の、爪先。靴にも、それに代わるものにも包まれていない、裸足の爪先。小さな指に乗せられた爪が、幼生の羽のようだった。
「ねぇ、足・・・大丈夫? 裸足、痛くない?」
何か尖った物を踏んだらそれだけでもう歩けなくなりそうな気がして、余計なお世話かもと思いながらも尋ねてみる。すると花は何故か弾かれたように顔を上げて・・・酷く、驚いた表情を浮かべて。どうしてそんなに驚いているのか、さっぱり分からない俺と結果として見つめ合うこと数秒、止まっていた時が決定的に動く瞬間を、目の当たりにする。
──へいき。
聞き取れたのが奇跡に近い、微かな声。小さく震える鈴のように、可憐な声。花は、それだけ小さく震えて、また俯く。爪先を、見つめて。でも、分かる。意識は、心は、ここに在る。この、繋いだ手に。多分、今、初めて繋がった。
小さな、花。細く頼りない木。忘れてしまった名前。もしかしたら初めから知らない、花の姿。
先ほど上目遣いに向けられた瞳は赤。可憐な、赤。少女の髪に結ばれるリボンのような、小さな足を包むエナメルの靴のような、赤。この赤も、咲く姿に在るのだろうかと想像して、もし在るのならば見てみたいと思う。
「歩こうか」意識しなくても、掛ける声は柔らかい。小さな頭が上下して同意を示したら、もう踏み出す足は迷わない。──どこ、いくの? 花は尋ねる。交互に踏み出される足を見つめながら。踏み出す足に、ひらひらと白いスカートを纏わせながら。どこにいくの、と。僅かに舌足らずな、幼い口調で。どこに? そうだね、どこへ、行こうか?
家の前に伸びる道を考えもなく歩きながら、考える。どこへ、行こうか? どこへ、行くべきか? どこが、相応しいか? 考える、考える傍で、視界の端で揺れ続ける白。ひらひらと。ひらひらと。揺れる白に誘われて、ふと浮かんだのは近所にある公園。遊具が全て白いから、ついた名前が『白公園』という、酷く安直な場所。それでいて、残酷なほど公平な時の流れに、既に白が埋まりきるほど薄汚い黒に覆われ始めている場所。『白公園』なんて名が、哀れに感じるほどに。
どうして、あの場所が浮かんだのか。疑問を片付けるより先に、足はそちらに向かっている。だから諦めて歩きながら考えて・・・すぐに、気づく。多分、あの薄汚れてしまった白が理由。揺れ続ける、汚れる日なんて訪れないと信じられる白。連れて行けば、あの汚れた白も少しは元の姿を取り戻せるんじゃないかなと。
「行こう」誘いではなく、決定に。足は公園に向かう。急ぐ必要もないから、繋ぐ手が小さいから、ゆっくりと。そして公園へ辿り着く為に通り抜ける、人気のない通りへと差し掛かる。今日は、本当に人がいない通りに。あまり広くないその通りは、人が通りかからない所為か、少々殺風景。でも、通りに面した家々から、塀の先に広がる庭から、見知らぬ人々の姿を見つける。華やかな、女の人たち。少し低めの塀、だからこそ見える顔は皆、美しく、その美しさを損なわない為に微笑みを零している。美しい者たち。
「あの人たちも・・・皆、花なの?」
問いは、何故か囁きに似ていた。そしてその問いに、花は小さく頷く。小さく、小さく頷く。まるで、頷いているのを気づかれたがっていないかのように。──でも、私とは違うの。違う、花なの、と小さく、小さく呟く。まるで、聞かれたがっていないかのように。
違う花、その呟きが、違う種類の花という意味ではないと聞いた瞬間から気づいていた。でも、続く言葉でよりはっきりとその意味を知る。花が、少しだけ顔を上げて塀の向こう側にいる花々に視線を向けて、小さいけれど噛み締めるような口調で語る。語りたがっていない顔で、語る。
「あっちの、あの、赤い紐で髪を飾っている彼女は『梅』。反対側の塀の向うに見える、明るい桃色のドレスを着ている彼女が『ツツジ』。その隣の家にいる、白い着物を着ている彼女が『辛夷』。・・・皆、有名な『花』。知っているでしょう?」
沢山、お話とかもあるものね・・・と、幼い姿の花は、その幼さに似つかわしくない淡々とした口調で尋ねる。答えを求めていない、初めから答えを決めている問いを。確かに、答えは要らないかもしれない。どの花も、あまりにも有名な花々だったから。花に疎い人間ですら知っていて、纏わるエピソードも沢山あるような、花々。・・・今、隣を歩く幼い『花』からは程遠い、少なくとも、花自身が程遠いと感じるほどに有名な。そしてそんな花々が塀越しに並ぶ通りを歩く、幼すぎる花。求めなかった問いの答えを探すように俯いて、とぼとぼと。黒い艶やかな髪、小さな頭、その頭の中心にある小さな旋毛。触ってみたいな、何の脈絡もなく、そう思う。多分、そう、多分・・・俯いて、ほしくないから。
どうしたら顔を上げてくれるのだろうかという淡い悩み。その悩みを指先で突かれるような気配を感じたのは、考え始めてからすぐのことだった。旋毛を見る為にいつの間にか俯いていた顔を上げれば、塀の向こう側から注がれる、色とりどりの視線。一つとして同じ色はないのに、向ける視線は皆、同じ色をしている。あの、桜と同じ色を。
「私とは・・・違うの。全然、違うの」
「違うのかもしれないけど、でも・・・キミも、凄い花なんだと思う」
弾かれたように上がる顔。見開かれた大きな瞳。赤い色が、日の光を弾く。弾いて、光が世界に零れ落ちる。この光を零す花は、きっと花自身が思うより凄いのだという確信。それは今も尚、向けられている色とりどりの花たちの視線によって齎される。だって、どの色も告げている。その声が、聞こえる。
「皆、キミが咲くのを心待ちにしてるみたいだもん。花のことは、花が一番良く知ってるんじゃない? それなら、花に咲かれるのを待たれている花は・・・きっと、凄い花だよ」
きっと、きっと凄い花だよ、言葉を重ねれば、重ねた分だけ強く形になる気がした。だけど強く形になってすら、その形を受け入れられない理由が花にはあるらしくて。
合ったはずの視線は外され、何処とも知れない方向へ彷徨う。彷徨って、何処にも辿り着かないまま溢れるのは、コップの縁から零れ落ちる一滴のように哀しくて、稚くて、美しい。
──でも、愛でてもらえないなら、意味がないもの。
手の中に納まる小さな手が、強く、強く意味を持つ。握り潰してしまわないかが、心配なほどに。心配だけど、握り締めずにはいられないほどに。この子は、あの場所でずっと呟いていたのだろうか? 誰にも、愛でてもらえずに。誰かに、愛でてもらえる瞬間を願って。何度も、何度も、あの場所に訪れたはずなのに。
「・・・ごめん」
「なにが?」
零れる謝罪の意味を、花は知らない。でも、俺も言えない。本当に悪いと思っている時に、その理由を話せるほど強くもないし、潔くもいないから。だから見上げてくる花の問い掛けには答えずに、ただ、精一杯笑う。明るく、笑う。
「意味なら、あるよ。だって、俺はキミが咲くのを見る為にここにいるんだから。だから心配とか、何もしないで・・・元気に、咲けばいいよ」
俺、ちゃんと見るから。出来る限り力強く、断言する。今まで気づきもしなかったくせに、そんな声が聞こえたけど、それは無視して。ただ少しだけ心配だったのは、俺が無視した声が花に聞こえていないかどうか。でも心配は不要だったらしく、大きく目を見開いた花は瞬きを二回した後、繋いだ手を、強く、強く握り締めて。
ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、
零れる、音がした。小さな花弁に似た可憐な笑みが、零れる音が。零れて、舞って、踊るように辺りを回る音が。確かに、した。それくらい・・・綺麗に、花は笑う。微笑う。
「本当?」
首を小さく傾けての問いに、声が出ない。知らずに咲いた花に、唐突に気づいた瞬間のように。だから、頷く。何度も、頷く。するとまた、ひらり、と音がした。掴むことも、追うことも出来ないほど、軽やかな音が。目の前の、小さな花から、ひらり、ひらりと。
そして花は軽やかな音を立てながら、初めて、繋いだ手を引いた。引かれるのではなく、引いたのだ。先導する為ではなく、注意を、引く為に。・・・そんな必要なんてないのに。もう、注意はここに。
「あのね、私・・・行ってみたいところがあるの」唐突な、お願い。「行ってみたいところ?」芸のない、鸚鵡返し。でもその芸のなさを指摘する非情さを、幼い花は持ち合わせていないらしく、どこか甘えるような、柔らかな声で続きを綴る。強請られる。
「流れる、水が見てみたいの。他の、花たちに聞いたの。この近くに、人が作った水の流れがあるって」
空いていたもう片方の手も添えて、小さな白い手が強請る。見てみたい、見せて、と。輝く赤い瞳と、風に揺れる白いスカートに目を奪われ上手く動かない頭は、それでも言われた言葉と持ち合わせている記憶を照らし合わせる。輝く瞳を、その期待を裏切りたくないと、それだけを必死に思って。流れる水、蛇口から流れ出る水のイメージが浮かぶけれど、すぐさま打ち消したのは、そんなモノは目を輝かせるに値するものじゃないから。だから打ち消して、次いで浮かぶのは・・・緑に囲まれた、水の流れ。自然から生まれ、人が手を加えた、水。でも、人が作ったわけじゃない。それにこの近くにはないし。この近く、人が初めから作り出した水、流れる、水。
「・・・あぁ、もしかして、親水公園のことかな」思いついたのは、近くにある人工的な小さな川と、川に沿って植えられた緑。それと添えられたベンチ。甲高い子供の声と、子供そっちのけで賑やかに話している母親達。最近は近寄らないそこは、もっと幼い頃に唯一親しんだ自然がある場所。
既に色褪せている水面の輝きが、何故か再び輝いた気がした。それは多分、記憶の中の水面が輝きだしたのではなくて・・・今、輝きを増した瞳の所為。この赤が、記憶の水面で煌めいている。小さく頷いて、浮かべられる笑みも同じ。だから、当初予定していた行き先なんてもうどうでも良くなってしまった。
「この道を真っ直ぐ行って・・・」二つ目の角を右に曲がるとすぐだよ、続けたかったその言葉は、最後まで形にすることは叶わない。添えられていた二つの手、その内の一つを離し、再び一つだけになった手で力一杯俺の手を引いた花が、今度は先導するように前を走り出したから。繋いだ手だけは、離さずに。
翻る、背。白に覆われた、薄く滑らかな後姿。引かれるままに追従し、小走りになる俺に花は振り返る。走る足を止めないで、黒い髪をなびかせながら、顔だけをこちらに。嬉しげに、楽しげに、鮮やかな笑みを広げて。何も言わずにその笑みだけを残し、また前を向いて走り出す花。その、背。つい一瞬前に見たもの。それ、なのに、何故か。
──少しだけ、一瞬前と違った、気がした。