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渾名が同じだったから『さん』付けで呼ぶしかなくて、だからそれが自然の流れみたいに余所余所しい間柄になりました。
・・・という説明をしたら、それは言い訳なのかな?


西方仁美に出逢ったのは、四月、色々な緊張や不安を期待という幻想で包んで出席した、高校の入学式だった。
受付けの指示通り体育館に向かい、指定された場所のパイプ椅子に座ろうとした時、既にその隣に着席していたのが西方仁美で、一瞬の躊躇の後、少しだけ会釈をして隣に座った私に同じように会釈を返してきたのも彼女で。
ただその時は彼女の名前を知らなかったし、正直言えばあまり顔も見ていなかった。
新しい環境、周りにいる、まだ見知らぬ同級生達。
隣にいた彼女を含めて、これからそれら全てに順応出来るだろうかと、正面の壇上に視線を固定したままそんな考えばかりが気になって脳裏を占めていたので、他の一切に意識が向かなかった。
だから私が彼女を『西方仁美』として認識したのは、退屈すら感じる余裕なく緊張で固まったまま過ぎ去った入学式の後、担任として紹介された教師に誘導されて連れて行かれた教室でだった。
入学式と同じように教室内に並んだ席のうち、指定された場所に座った私の目の前の席に座ったのが先ほどの彼女だという事には流石に気づいていて、目の前にある、一つに結ばれた髪ゴムの黒だけをじっと見つめているうちに始まった自己紹介。
誰もが気恥ずかしさで嫌がるそれに、仕方なく椅子から立ち上がって名前と「宜しく」の一言だけを口にして次の人に順番を回す、そんな繰り返しが続く中、迫り来る順番に逃げ出したいような嫌気がピークに達した瞬間、立ち上がった彼女が口にした名前。
血液の流れが一時的に活発になっているのを感じながら、回ってきた順番によって仕方なく立ち上がり、意識の片隅で当たり前といえば当たり前の事実におかしいほどに納得していたのを良く覚えている。


──これ、名前の順なんだ、と。


『西方仁美』と『西山梓』。
『ニシ』の後に続くのが『カ』か『ヤ』の違いで絶対的な位置、前と後ろという位置で並んだ私達は、その後、順当に互いの自己紹介をする。
何がきっかけだったかは覚えていない。
多分、本当に些細なきっかけ、唯一覚えているのはそれがお昼休みとかの長い休み時間ではなくて、授業と授業の間の短い休み時間とか、さもなければHRの合い間とか、そんなちょっとした時間だったという曖昧な事実だけ。
席も前後に並んでいるのでとりあえずやっておけ、みたいなノリだっただろう自己紹介は、出身中学とクラス内にいる同じ中学出身者の紹介の後に続いた互いへの呼び方、渾名について話が及んだところで行き詰まった。
どちらが言い出したのか、それもまた覚えていないけど・・・でも二人とも『ニシ』と呼ばれていると発覚した時の微妙な空気だけは今でもはっきり覚えている。
おかしなものだが、私は・・・いや、多分西方仁美も、心のどこかで『ニシ』という渾名は自分の渾名なのだと思い込んでいたのだと思う。
だからそれが相手のものでもあると分かった時、正直、どうしたらいいのか分からなくなったのだ。
起こる可能性がある問題に対して、対応策を練っていなかった無能な政治家みたいに。
でも他の渾名を提案出来る程の仲でもなく、またそんな機転も利かない私と彼女は、結局その微妙な空気を少しの間、共有する羽目になる。
そう、ただ共有するだけに。
つまり、何の解決策も見出さないままに。

・・・何が、言いたいのかといえば。

何も解決出来なかったその問題は、無難な『さん』付けするという方法でとりあえず問題自体をなかった事にしてしまい、その結果、全てがそこで見えない線を引かれてしまったのだ。
他の人間、挨拶以外をしないような人間と同じ呼び方。
それだけの関係と位置付けてしまったのに等しい結論は、それから、席が前後というとても近い、それなのに親しくなく、親しくなれない状態を作り上げたのだった。


──べつに、だからといって何がどうなるわけでもない。

仲が悪くなる程の仲がないのだから、問題なんて起らない。
挨拶すら交わせないほど気まずい間柄でもないのだから、居心地悪いわけでもない。
お互いに他に同じ中学出身の親しい友人がいるから、移動教室に向かう間や昼食の時間に独りぼっちになる事もない。
ただ、強いて言えば・・・新しい環境の中、新しい関係を築く事が出来ない、代わり映えのしない生活になっていたと、ただそれだけの事だった。
尤も、変わらないのは大歓迎だったりする。
変化、なんて、臆病者で小心者の私には恐怖の対象でしかないのだから。
未知なんて、知りたくもないくらい。
冒険や挑戦なんて単語、聞くだけで気違いだとしか思えない。
そう、いつだって思う。

どうして今の状態をずっと続ける努力をしないのか、と。

「その方が絶対健全だって」
「何が?」
「変化のない世界に対する切望の念を送り続けてた」
「まーた、コイツは訳の分からない事、言ってるよ」
お昼休み、食べ終わったお弁当箱を玩びながら何となく視線を向けた先、見える光景に呟く感想。
怪訝そうな声を上げる友人に淡々と、具体性を一切排除した抽象的な答えを返すと、それを聞いていたもう一人の友人から不本意な評価を受けた。
全く謂れのない中傷に近いと思われるそれに、だからこそ、当の友を軽く睨みつけながら態とらしく唇を突き出して攻撃を開始する。
「またって何?またって。まるで常に私が意味不明な発言してたかのように。人聞き悪いなぁ」
「いや、実際してるっしょ?アンタ、わりと普通に不思議ちゃんだもん。ねぇ?」
「そうそう。口、閉じてればまともなんだけど、開くとさぁ。ま、そこが良いとこって思おうと思えば思えなくもないかもしれないかもだけど」
「それって結局どっちなんだよ?つーか私は別に不思議ちゃん発言なんかしてないって。・・・私を理解出来る人があまりいないだけで」
「・・・あのさ、そんな言葉を格好つけて言われても微妙なんだけど」
「ってか、言ってて虚しくならん?」
皆それぞれ昼食を食べ終わって、教室の片隅でのんびり座りながら続ける会話は他愛無いの一言で集約されるようなもの。
私がした攻撃も、その大半は態とふざけた内容を含ませていたし、それに答える友達二人の突っ込みも、それを分かっていてのものだった。
態とおかしな発言をして、それを態とと知りつつ突っ込んで、笑って。
意味のない会話は、会話を交わすという価値だけを持って繰り返される。
それに、別に不満はない。
ふざけた言葉ではあったけど、変化のない世界を切望しているのは事実だから。
・・・でも、その会話の最中、何となく視線が向くのはやっぱり先ほどと同じ場所だった。
教室内、好き勝手な位置に仲の良い者同士で固まっている為、今は離れてしまった自分の席。
その前の席を中心に固まる、二人の姿。
中西仁美と・・・荒井桃子。
私達三人組と同様、同じ中学出身というあの二人は、常に二人一組、ワンセットで行動している。
お昼休みも、移動教室も、学校の行きも帰りも。
それ自体は不思議でも何でもなくて、だけどその二人の行動がふとした時に目につくのだ。
自然と目が追うとでも言うべきか。
初めはどうしてだろうと思った。
片方の当事者が席の近い人だから、それで何となく気になっているのかとも思った。
・・・多分、それも理由の一つ。
でも他にも理由があるのだと、ここ一ヶ月でやっと分かった。
気になっているのは、あの二人の距離だ。
誰も不思議に思ってないし、本人達に至っては、アレがごく普通の状態なので気にもしていないようだが、他人を少し距離を持って眺めるのがわりと好きな私は思うのだ。


──あの二人、近すぎる。


「ニシ?どうした?また独りの世界に行ってる最中?」
「来たいなら来ても良いよ」
「行きたくないって、そんな世界!」
響く、笑い声。
ぼうっとしている私になんて馴れっこだと言わんばかりの他の二人は、気を遣う必要のない、仲の良い友人で、高校が同じになった事実は変化を忌避する私にとって何より有り難い事実であるのは間違いない。
でも、それだけ仲が良くても見えない線は在るし、はっきりと自覚すべき距離もある。
会話がなければ何か話題を提供しようと思うし、様子がおかしければ声を掛けるし、機嫌が悪くなっていたら近づかないようにする。
多分、女の子同士の仲の良さって、個人個人の囲いの距離なんだ。
自分を取り巻く囲い、それは絶対開く事も他と接触する事もなくて、ただ親しさによって、距離が近づいたり遠退いたりするだけ。

でも、あの二人の囲いはくっ付いてる。

これは、主観であり客観。
そして、見間違いようもない事実。
自然と二人セットでいて、機嫌が悪い時は話し掛けないで向かい合い、話題がない時は無理に話さない。
互いが持つ囲いを共有するような、接触するそれを許容するような在り方は、まるで本の中の登場人物みたいで、はっきり言って、現実にはあまりお目に掛らない。
少なくとも、私は見たことがない。

べつに、今の世界の在り方に不満はない。

ただあの二人の距離に気づいた時、感じたのは感動に似た羨望、さもなければ羨望を模した感動だった。
今の私を含めた三人組で、そんな関係になりたいわけじゃないけど。
と言うか、むしろそこまでくっ付いたら面倒だなと思うから、なりたくないけど。
でも、なるかならないかとは別に。



自分が見つけた秘密を宝箱に入れるようにして、その感情ごと見守っていたのだ。



他人の関係を宝物みたいに思っている辺り、我ながらかなり変わっているという自覚はある。
だから、誰にもその事は言わない。
言わないで、そのままずっと、いずれは訪れる席替えまで目の前の人をガラス越しに眺め続ける予定だったのだ。
授業の合い間の短い休み時間ごとに訪れる荒井桃子とだけ空気を共有する、その光景を。
席が離れれば、流石にここまで観察めいた事をいつまでも続けられないだろうと・・・そう、客観的な判断が下っていたし、それまではこの貴重種のような二人を見ていたいと。

「青春の一幕って言うか、いずれはセピア色になる記念写真って言うか・・・」
「相変わらず意味分かんねぇー」
「コイツがこうなのはいつもの事なんだから、気にすんな、気にすんな」
「気にしてもらえないと、私、ただの変な人になっちゃうんだけど」
「違うとでも思ってたの?」

思って、明確な希望の形すら取らないそれが、漠然と叶うと根拠のない確信をしていた。
──でも、根拠のない確信は、当たり前みたいに外れるようだ。
外れるまで根拠がある気になっていたそれが外れたのは、二つの原因があったようだ。
一つは予想していた席替えが、担任の余計なお節介──つまりは今の席のままもう少しクラスの人間に慣れる──により、二学期に持ち越しになったこと。
もう一つは・・・。

思いも寄らない、と言うか、担任並みに余計なお世話だから私が何かを思う必要もないソレを知ったのは、入学式から数ヵ月後。
期末テストが終わって、あと少しで夏休みという学校中が落ち着きを失った初夏だった。